【皇室、徒然なるままに】第55話:秋篠御詠歌 「令和の改新」  西村 泰一

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このたび、『昭和維新の歌』の替え歌を天照大神に作詞をお願いしてみた。完成した『令和の改新』という歌を拝見したところ、ちょっと勇ましすぎる感じもしたが、天照大神は秋篠宮一家の乱行ぶりにたいそう御立腹のご様子で、そのまま紹介させていただくことにした。

その前に、どうしても触れておきたいのが「大化の改新」と「明治維新」。そこからの「昭和維新」についてである。

 

【大化の改新】

『天皇』という称号は、673年に飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇が初めて正式に用いたとされている。それまでは『大王』という呼称が用いられていたようである。

これは単に呼称の変更といった話ではなく、これまでの諸豪族の連合体的存在であった大和政権(例えると神聖ローマ帝国(962-1806)みたいなもの)を、天皇を頂点に戴く律令体制へ移行させるという動きの顕れと見るべき事項である。

この動きの嚆矢(こうし:物事の始まり)となるのが、いわゆる645年の中大兄皇子や藤原鎌足による蘇我氏を打倒してのクーデターで、背後には隋に留学して帰国した高向玄理(たかむこのげんり)、旻(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、そして610年に高句麗から渡来し、日本に絵の具、紙、墨を伝えたとされる曇徴(どんちょう)や602年に百済から渡来した観勒(かんろく:天文、暦、そして悠仁君が得意とする陰陽道を伝えたとされる)らの大陸の情勢に関する知見が、色濃く横たわっている。

中国は、220年に漢が滅亡した後、三国時代や割と短命であった西晋を経て、いわゆる南北朝時代という動乱の時期を迎えた。581年の随による統一、その第2代皇帝煬帝が618年に暗殺されての李淵による唐王朝が始まりといった中央集権国家への歩みが、日本を律令体制による中央集権国家へと誘ったことは疑いようがない。

このあたりは、日本に黒船がやってきて尊王攘夷運動が高まりを見せ、それを経て明治維新により近代国家への扉が開いたという話を彷彿させるものがある。

余談であるが、7世紀ころまで日本は朝鮮半島に深く関わっていた。日本の古墳として前方後円墳は有名であるが、朝鮮半島の南西部に栄山江(ヨンサンガン)という大河の流域地域があり、ここに現在のところ認められる前方後円墳形の墳墓が14基前後あるという。

これは、その技術を朝鮮半島に伝えた日本人がいたことを示している。現在では否定されているが、日本書紀の記述をもとに1970年頃まで日本史には「任那に日本府があった」とあり、私もそのように教えられていた。

日本古代最大の反乱といわれる527年の筑紫国造磐井による『磐井の乱』は、継体天皇の時代において朝鮮半島の新羅と結んでのものであり、物部麁鹿火(もののべのあらかび)に鎮圧されている。663年、百済再興救援の日本軍が朝鮮の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗し、日本はこれ以降、朝鮮半島情勢には深入りしないことにしている。

 

【昭和維新(明治維新に倣って)】

さて『維新』と言えば、日本人にとってはまず『明治維新』であろうが、『維新』の最古の用例は、中国の『詩経』の「大雅・文王篇」の「周雖旧邦其命維新(周は旧邦なりといえども、その命(めい)は維(これ)新(あらた)なり)」であるとされている。

日本における最古の用例となると、『日本書紀』にある大化2年(646年)3月の記事に、大化改新の詔に応じた皇太子(中大兄)の言葉として、「天人合應厥政惟新」とあり、「天も人も合應(こた)へて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新(あらた)なり」であるとされている。

幕末に、戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう)と並んで水戸藩の双璧をなした藤田東湖も『維新』を愛用したことが知られている。彼の天保元年(1831年)の日記『庚寅日録』の4月21日の条には「中興維新之責実在足下(中興維新の責、実に足下にあり)」、25日の条にも「去年以来国事維新百度将復(去年以来、国事維新百度も将に復す)」とあるなど、多用と言っていい頻度で用いている。

明治維新以後も『明治維新』に肖ってということであろうが、変革を意図した折によく用いられる。有名なところでは、2012年に結成された『日本維新の会』があり、当時はその英語名を『Japan Restoration Party』としていた。

これは2014年に一旦解党し、『維新の党』を新たに立ち上げている。こちらの英語名は『Japan Innovation Party』である。この『維新の党』は内部分裂を起こし、2015年10月に橋下徹を代表、松井一郎を幹事長として『おおさか維新の会』が発足する。これの英語名は『Initiatives from Osaka』である。

『おおさか維新の会』は全国制覇を目指し、2016年8月に党名を原点回帰で『日本維新の会』に改めている。これの英語名は『Japan Innovation Party』である。

さて少し時代を遡って、大正元年(1912年)に大本教の出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が『大正維新』を唱えている。しかし『明治維新』の次に有名なのは、なんといっても『昭和維新』であろう。これは、1930年代に日本で唱えられた国歌革新の標語で、有名な五・一五事件(1931年)や二・二六事件(1936年)は、この標語のもとに行われている。

1920年代から1930年代前半にかけては、昭和金融恐慌(1927年)や世界恐慌(1929年)による経済の悪化、排日移民法(1924年)や張作霖爆殺事件(1928年)などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まっている。

『昭和維新』はこうした背景の中で、唱えられたスローガンであった。これに関する詳細はWikipediaに譲ることにして、『昭和維新の歌』について見ておこう。

この歌は別名『青年日本の歌』とも言われ、1930年に大日本帝国海軍中尉の三上卓(五・一五事件に連座している)によって作詞作曲された。それでは、まず曲を聴いてみよう。

 

この曲は1989年に公開された、映画『226』のモチーフとなっている。その歌詞も見てみよう。ただし、この詩句の多くは土井晩翠と大川周明の著作から剽窃、無断引用からなるという。

一、汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
溷濁(こんだく)の世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く

 

二、権門上に倣れども 国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく)を念ねがう心なし

 

三、あゝ人栄えて国亡ぶ 盲(めしひ)たる民(たみ)世に躍(おど)る
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

 

四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ益良雄(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花

 

五、古びしむくろ乗越えて 雲飄揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて起つ時に 大丈夫(ますらお)の歌なからめや

 

六、天の怒りか地の声か そも只ならぬ響あり
民(たみ)永劫(えいごう)の眠より 醒めよ日本の朝ぼらけ

 

七、見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐

 

八、ああうらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
栄華(えいが)を誇る塵(ちり)の世に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺めぞや

 

九、巧名なにか夢のあと 消えざるものはただ誠
人生意気に感じては 成否を誰(たれ)か論(あげつら)ふ

 

十、止めよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
我等が剣(つるぎ)今こそは 廊清の血に躍るかな

 

さて、三上卓がパクった大川周明の『則天行地歌』の歌詞は次のようである。

久遠(くをん)の理想(りさう)抱(いだ)きつつ
混濁(こんだく)の世(よ)にわれ立たてば
義憤(ぎふん)に燃(も)えて血潮(ちしほ)湧(わ)く

 

嗚呼(ああ)我(わが)胸(むね)に漲(みなぎ)るは
天(てん)に則のつとり王道わうだうを
地(ち)に行(おこな)はむ志(こころざし)

 

權門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
國(くに)を憂(うれ)ふる誠(まこと)なし
大地(だいち)震(ふる)へど尚(なほ)覺(さ)めず

 

白虹(びやくこう)地(ち)をば貫(つらぬ)けど
天(てん)を畏(おそ)るる心(な)く
ただ苟安(こうあん)をこととせり

 

財閥(ざいばつ)富(とみ)を誇(ほこ)れども
民(たみ)を念(おも)ふの情(なさけ)なし
飢(うゑ)に迫(せま)れる同胞(どうはう)は
國(くに)を呪(のろ)ひてひたすらに
亂(らん)を思(おも)へど顧(かへり)みず

 

ただ貪婪(どんらん)の爪(つめ)を研(と)ぐ
正義(せいぎ)に結(むす)ぶ益良雄(ますらを)の
使命しめいは重(おも)し混沌(こんとん)の
國(くに)と民(たみ)とを救(すく)ふべく

 

雙刄(もろは)の劍(つるぎ)提(ひつさ)げて
吾(われ)ら起(た)たずば天(あま)照(て)らす
この日(ひ)の本(もと)を如何(いか)にせん

 

 

YouTubeチャンネルの『ゆっくり解説』さんに、この『昭和維新の歌』のいい解説があるので、そちらも御覧いただきたい。

 

【令和の改新(大化の改新に倣って)】

このたび、その『昭和維新の歌』の替え歌をと作詞を天照大神にお願いしてみた。すると、大化の改新が討奸(とうかん)ということで蘇我氏の排除を目指したように、令和の改新でいう討奸は、皇室から秋篠宮一家の排除を目指すとよいとのことであった。

私は「あからさまに甚だしすぎずや(ちょっと過激すぎませんか)」と申し上げてみたものの、天照大神は秋篠宮一家の乱行ぶりをご存じとのことで、「秋篠宮のわろきことさやかなり(秋篠宮が傍若無人であることは明白である)」と仰る。

さらに「かばかりにつきづきし(このくらいで丁度いい)」とも仰るので、そのまま紹介させていただくことにした。ご承知おき願いたい。

一、汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 皇居の雲は乱れ飛ぶ
溷濁(こんだく)の世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く

 

二、秋篠上に倣(おご)れども 国を憂うる誠なし
紀子様奢を誇れども 社稷(しゃしょく)を念(ねが)う心なし

 

三、秋篠栄えて国亡ぶ 盲(めしひ)たる民(たみ)世に躍おどる
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

 

四、令和改新の春の空 正義に結ぶ益良雄(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花

 

五、腐りし秋篠乗越えて 雲飄揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて起つ時に 大丈夫(ますらお)の歌なからめや

 

六、天照の天の声か そも只ならぬ響あり
民(たみ)永劫(えいごう)の眠より 醒めよ日本の朝ぼらけ

 

七、見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて
改新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐

 

八、ああうらぶれし天地の 迷ひの道を人は行く
栄華(えいが)を誇る秋篠に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺めぞや

 

九、紀子儚(はかな)き夢のあと 消えざるものはただ誠
人生意気に感じては 成否を誰たれか論(あげつら)ふ

 

十、止めよ秋篠の一悲曲 悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
我等が剣(つるぎ)今こそは 廊清の血に躍るかな



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それでは第55話の締めくくりの1曲、『【国民歌】大政翼賛の歌 Anthem of the Taisei Yokusankai 瑞鶴の海鷲』をどうぞ!

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

 

■秋篠宮家の他の替え歌はこちらです■
【皇室、徒然なるままに】第46話:朝と夜の間に(悠仁讃歌)

【皇室、徒然なるままに】第47話:キコの奴隷(紀子さま讃歌)

【皇室、徒然なるままに】第48話:だから戻って(佳子さま讃歌)

【皇室、徒然なるままに】第49話:嵐山通船事件 私は秋篠一家の頭(かしら)

【皇室、徒然なるままに】第50話:蜻蛉の秘密 (悠仁君の独り言)

【皇室、徒然なるままに】第51話:笑って許して (悠仁君独白)

【皇室、徒然なるままに】第52話:国立科学博物館怨歌

【皇室、徒然なるままに】第53話:国立科学博物館怨歌Part2 『H君を恨みます』

【皇室、徒然なるままに】第54話:生きていてよかったですか? (秋篠宮紀子妃)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。



【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『YouTube』【日本軍歌】昭和維新の歌 青年日本の歌Ode of Showa Restoration – Japanese Military Song청년일본가Oda a la restauración Shōwa

『YouTube』【ゆっくり解説】軍歌「昭和維新の歌(青年日本の歌)」皇道派の青年将校は日本を思う志士だったのか?

『大川周明』則天行地歌

『YouTube』【国民歌】大政翼賛の歌 Anthem of the Taisei Yokusankai 瑞鶴の海鷲