【皇室、徒然なるままに】第85話:皇統はなぜ1500年も続いてきたのか?《第1幕》

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§1 権威と権力の分離

アドルフ・バーリ(Adolphe A. Barle, Jr.)とガーディナー・ミーンズ(Gardiner C. Means)が1932年に発表した著書『近代株式会社と私有財産』(『The Modern Corporation and Private Property』)の中で、「所有と経営の分離」ということを提唱している。これは巨大企業の株式は株主によって所有されているが、その経営は必ずしも株式を保有しない経営者によって営まれるということを指している。これは、お金を貯めてBoutiqueを開いて、自分で経営するというのと対極にある考え方である。

上記の話は経営学ないし経済学での話であるが、この考え方を政治の世界に持ってくると、「権威と権力の分離」となる。政治権力は、その行使にあたって、常にその正当性を強く希求するのである。そしてその正当性を与えるのが権威である。この権威を朝廷が担い、権力を幕府が担うという「権威と権力の分離革命」とでも言うべきものの端緒を開いたのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝であり、これを完成させたのが、徳川家康というよりは、その政治におけるBrain的存在であった「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝である。源頼朝という人は、軍事では異母弟の源義経に遠く及ばないが、政治的Senseは冴えに冴えわたるのである。私は皇統がこれだけ続いたことの最大の功労者は源頼朝ではないかと思っている。

今は民主主義ということで、権力の移行は、選挙等を通じて行われるし、政治家も選挙ということを強く意識せざるを得ない。「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちると唯の人」というわけである。しかし王朝のようなものに権力が担われていた場合、その王朝が現実に対して不適合的になると、その王朝を力で倒して新たな王朝を立てる以外の選択肢はない。これが王朝に寿命がある所以である。しかし純然たる権威となってしまった朝廷は、現実の政治に対して、その責任を問われることはない。これが皇統が今まで続いた理由である。大雑把に話すとこんな形である。



それではもう少し歴史に即して見てみよう。

 

§2 律令制度

日本が中国から輸入したのは何も漢字と仏教だけではない。古代日本において、皇室を中心とする貴族階級が、中国の隋(581ー618)・唐(618ー 907)に倣って、7世紀後半から8世紀頃に制定したのが、律令制度である。645年の大化の改新で律令国家建設の第一歩をふみ出したのであるが,天智天皇の折の近江令,天武天皇・持統天皇の折の飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令を経て,文武天皇の折の大宝律令で唐制を範として律令制度は大成された。「律」は刑法に相当し、「令」は行政法や民法・訴訟法などにあたる。

こうして日本は法治国家になったと言っていい。この法体系のもとで二官八省が中央官庁として置かれた。本格的な官僚制の始まりである。二官とは神祇官(神事を司る)と太政官(行政のすべてを統べる)を指し、八省とは、太政官の下に置かれた中務省(詔勅の起草)、式部省(人事・教育)、治部省(仏事・外交)、民部省(戸籍・税務)、兵部省(軍事)、刑部省(裁判・刑罰)、大蔵省(財政)、宮内省(宮中の庶務)の八省を指す。律令制という国家の大枠を備えることで、日本は本当の意味で国家になったと言っていい。天皇制が今まで続いたと同じく、律令制度は幕末まで続いた。

それでは何故この時期に日本は律令制を導入しようとしたのであろうか?それは国際情勢による。国際情勢と言っても、もちろん東アジアでという話であるが。このあたり、黒船の来航によって、日本は近代国家へと大きく変貌する話を彷彿させるものがある。それについて詳しく説明しよう。

朝鮮半島は4世紀ころから7世紀ころまで三国時代であった。三国とは高句麗、百済、新羅を指す。この三国が鼎立していたのである。この三国鼎立が、隋王朝や唐王朝という強大な王朝の成立によって大きく変貌する。隋は中国を統一したのち、高句麗に軍を進め、四度にわたって攻撃しているが、高句麗はいずれもこれを退けている。しかし、結局、高句麗は668年(天智7年)に唐と新羅の連合軍に滅ぼされている。余談であるが、高句麗が滅亡したことで、高句麗から日本に来る人たちが多くいた。日本ではその人たちを「高麗人(こまじん)」と呼んでいる。現在の埼玉県日高市の一部及び飯能市の一部にあたる高麗郡があるが、朝廷はここに高麗人達を住まわせた。703年には高麗人である高麗若光に朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっており、高麗神社は、この高麗若光を祭っている。

百済は日本と関係が深い。538年には百済から仏教が日本に伝来している。577年には百済から経典や修行僧、造仏工・造寺工が献上されている。欽明天皇(在位期間:539年12月30日 – 571年5月24日)の代には百済の聖明王から仏像や経典が贈られている。百済は、660年に唐・新羅の連合軍によって滅ぼされている。天智天皇は663年に百済復興を目指して3万7千人余りの軍を朝鮮半島に進めるが、白村江の河口付近で唐・新羅の連合軍と戦い、大敗している。こうして朝鮮半島は統一新羅の時代となり、935年に高麗に帰属するまで続くことになる。

こういう東アジアの情勢を見て、日本の指導者達は、日本も唐のような近代国家(当時としてはという意味でですが)にならなければいけないと思ったのでした。明治維新を担った人たちが、日本もイギリスやフランスのような近代国家にならなければいけないと考えたように。日本は最初の女性天皇である推古天皇(在位:593-628)の折に数度にわたって遣隋使を派遣しており(小野妹子は有名)、630年には第1回の遣唐使として犬上御田鍬らを派遣しており、彼らがもたらした大陸の情勢の情報も、日本の指導者達を突き動かしたと思われる。

明治になると、王政復古ということで、天皇を担ぎ上げるのであるが、同時に律令制の影響も随所に見られる。太政官、神祇官といった律令制の二官八省を模して、二官六省制で発足している。今財務省と言っている役所は、割と最近まで大蔵省と呼ばれていましたが、これは上記の律令体制の名残です。大蔵省なんて、Ministry of Financeの日本語としては、えらく大仰(おおぎょう)な物言いだなと思われた方も多いと思いますが、上記のような経緯によるものです。「省」という言葉遣いも律令制の二官八省の名残と言えるでしょう。

律令制について、詳しくはWikipediaのこちらのページを御覧ください。

∙ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6


 

§3 武家の支配と朝廷

武家による政権を幕府と言うが、これは朝廷から征夷大将軍に任ぜられたものを首班として営まれる。この「征夷大将軍」という役職は、古代、朝廷がその権力に従おうとしない東北地方の蝦夷を武力で屈服するために生み出した所謂「令外の官」です。日本史では源頼朝に始まる鎌倉幕府(1192-1333)、足利尊氏に始まる室町幕府(1336-1573)、徳川家康に始まる江戸幕府(1603-1868)の3つしかありません。平清盛は幕府を作っていません。平氏政権は、平清盛の娘徳子を天皇の妃に送り込み、平氏一族を朝廷の高位につけることで、権力を握りました。豊臣秀吉も幕府を作っていません。豊臣秀吉の位は、征夷大将軍ではなく、関白でした。平家の支配も豊臣の支配も一代限りだったのは、主としてこの為です。源義経は一の谷の合戦で平家軍に勝利したのち、後白河法皇から検非違使と左衛門少尉の役職を与えられました。この官職の通称は「判官」と呼ばれ、平安京の警察機構を担っていました。しかし、この任官は鎌倉の許可を得ていなかったため、兄の頼朝から糾弾されることになります。頼朝は御家人や兄弟でさえも朝廷の官職を受けることを厳禁しており、特例も一切認めていませんでした。頼朝としては、官位を通して武家が朝廷に取り込まれた平家の二の舞いになることを怖れたのです。こうして二人の対立は決定的なものとなりました。

武家政権下における朝廷の役割は、年号の制定や官位授与などでした。朝廷は権威性を保ちつつ、幕府に政治の実権を委譲したのです。

政治の世界では正当性がとても大事です。朝廷は幕府のおこなう政治に正当性をあたえる役を担いました。武家の最高職である征夷大将軍は天皇から賜るもので、武家は天皇の信任を得て将軍になることで国を統治できたのです。

朝廷と幕府という「権力の二重構造」ではないかと言われれば、そうかもしれません。「権力の二重構造」というのは、何も日本に限った話ではありませんが、朝廷という古い権威をここまで守り通すというのは、他に例を見ないと思います。

それでは鎌倉幕府の9代に渡る将軍を見てみましょう。

源頼朝, 源頼家, 源実朝, 藤原頼経(ふじわらのよりつね), 藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ), 宗尊親王(むねたかしんのう), 惟康親王(これやすしんのう), 久明親王(ひさあきらしんのう), 守邦親王(もりくにしんのう)

最初の3代は所謂源氏ですが、これは3代目の実朝の暗殺で途絶えてしまいます。その後の2代は所謂摂家将軍といって、摂家である九条家から迎えた将軍でした。藤原頼経の在任期間は18年間(1226 – 1244)、藤原頼嗣が8年間(1244- 1252)と比較的長期間ではあったものの、幼いころから成人するまでの期間であって、政治的な力はほとんどなく、幕府の実権は北条氏が完全に掌握していました。最後の4代は所謂宮将軍です。例えば宗尊親王は後嵯峨天皇の第1庶皇子です。宮将軍というのは北条氏の悲願でした。北条氏としては4代目から宮将軍にしたかったのですが、実朝暗殺の後、これを好機と見た後鳥羽上皇が起こした承久の乱(1221)で、幕府と朝廷の関係は穏やかならざるものとなったため、やむなく実朝後の2代は摂家将軍に甘んじました。

こういう傀儡にしか過ぎない将軍職に朝廷からの人物を就かせるというのは、幕府の権威付けのためで、紀子さんが「悠仁を東大に」と、形振り構わず遮二無二なるのと同じ心理です。ここでも幕府が朝廷を権威ある存在として認めていることが窺えます。逆に朝廷は親王を幕府のTopの将軍にすることで、幕府の正当性を裏書きしているわけです。摂家将軍や宮将軍を見ていると、田中角栄の名言、「総理・総裁なんていうのは帽子なんだ」というのを思い出しますね。中曽根内閣も発足当初は「田中曽根内閣」と揶揄されたものです。北条氏にとっては、「将軍なんて帽子だ」という訳です。「でもBrandものの帽子がいい」という訳です。

足利尊氏は、建武の新政において勲功第一とされ従三位に叙任されていますがが、重要な役職には就いていません。これは後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとも、尊氏が政権と距離を置いたともいわれています。いずれにしても、尊氏は後醍醐天皇とは袂を分かち、1338年(暦応元年)に北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられました。この頃、朝廷は北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)にわかれています。所謂南北朝時代(1337 — 1392)です。後醍醐天皇は南朝の天皇です。足利尊氏は基本的に北朝の側にいるのですが、観応の擾乱(1350-1352)で、弟の直義を討伐に行く折には、南朝の後醍醐天皇の後を継いだ 後村上天皇から綸旨を出してもらっています。

このように征夷大将軍への任命だけでなく、大きな動きをするおりには、院宣とか綸旨といった朝廷からのお墨付きが、重要な役割を果たしています。朝廷がふたつあるというのは望ましくありませんが、尊氏は非常にすぐれた政治家でもあるので、そこをうまく利用しています。足利尊氏は、とても度量の広い人で、敵対していた後醍醐天皇が崩御なさった折には、その菩提を弔うために、周りの反対を押し切って、天龍寺を建立しています。天龍寺は、京都府京都市にある臨済宗天龍寺派の大本山で、世界文化遺産に登録されています。

 

§4 江戸時代における象徴としての朝廷

今は「主権在民」と言いますが、武家が幕府を開いて政権を握っている折には、武士に主権があると言う意味で、「主権在武」と言っていいかと存じます。しかし鎌倉幕府や室町幕府では、これは不徹底でした。どうしても朝廷には気兼ねしちゃうんですよね。これを徹底させたのが江戸幕府です。戦後になって初めて天皇は象徴になったと思っている方も多いかと思いますが、江戸時代にすでに「象徴としての朝廷」というのは、貫かれています。見事なものです。将軍直属の京都所司代を置いて、朝廷に対する監視も怠りありません。朝廷と幕府の間の連絡や交渉を担当する朝廷の役職を武家伝奏(ぶけてんそう)と言います。江戸時代最初の武家伝奏は、広橋兼勝(ひろはしかねかつ)と勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ)の2人で、どちらも大納言(大臣の次の官職)でした。武家伝奏は、京都所司代と常に連絡し、幕府の意向を朝廷に伝えることを任務としました。大名には参勤交代がありますが、武家伝奏は、勅使として毎年江戸に上り、将軍に挨拶することになっていました。

禁中並公家諸法度を起草したのは、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝(こんちいん すうでん)です。金地院崇伝は徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸幕府の礎を作りました。禁中並公家諸法度が制定されたのは1615年ですが、1609年に発覚した女官5人と烏丸光広ら公家7人との密通、所謂「猪熊事件」が契機になっています。この事件の首謀者が公家の猪熊教利(いのくま のりとし)であったため、こう呼ばれます。この女官の一人は広橋兼勝の娘です。それではこの頃の幕府と朝廷の関係を赤羅様に示す動画を見ていただきましょう。私がいう「象徴としての朝廷」がよくわかると思います。

参考:
∙ https://www.youtube.com/watch?v=Zrj17BJtsrM
∙ https://www.youtube.com/watch?v=SdcFtDZfFgo

禁中並公家諸法度は全部で十七条から成りますが、重要なことは、天皇の行動の大半を武家の法度が制限していることです。統治をするのは幕府であって、天皇や朝廷も幕府によって統治されなければならないというわけです。朝廷の動きが武士によって細かく規制されたのは、日本史上初めての出来事です。元号を改めることや、貴族に官位を授けるという天皇家の細かい特権にも幕府の同意が必要となりました。つまり、日本国憲法で天皇は象徴と定められているように、江戸幕府のもとで朝廷は象徴になりました。

そのことを如実に示すのが、1629年、後水尾天皇が大徳寺などの僧侶に対して紫衣を与えたことにはじまる所謂紫衣事件です。紫衣とは高僧にのみ与えられる紫色の袈裟・法衣のことなのですが、問題なのは天皇が幕府に無断で与えてしまったことでした。禁中並公家諸法度には、紫衣着用の勅許をする際には「事前に申し出ること」と規定されています。これを根拠に、幕府は後水尾天皇の勅許を無効にしています。これに抗議した大徳寺の僧侶・沢庵は流罪となっています。

ただ幕府は朝廷と敵対するようなことは望んでいません。1620年には2代将軍の徳川秀忠が娘の徳川和子を後水尾天皇に入内させています。紫衣事件の後、3代将軍徳川家光は、譲位した後水尾天皇のもとに赴き、お土産として、院領(天皇家の土地)7000石を差し上げるという粋な計らいをしています。

 

§5 Concluding Music

それでは又音楽でこの論考を閉じましょう。このVocalの女の子、とてもいいですね。

(理学博士:西村泰一)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。



【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

参考:
『YouTube』J-POP CLASSIC CLUB TOKYO_YouTube Official Channel 「タッチ/岩崎良美」をカバー 音大生が本気でJ-POPを演奏してみた! Yoshimi Iwasaki – Touch

『Wikipedia』律令制

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