勤務先に学校に観光名所に…謎めくウィーン時代の川嶋家の写真 イカサマ露呈のご学友写真まで

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ブログ記事に、たびたびコメントを寄せてくださっている「きさらぎ」さんという愛知県在住の読者さまから、このたびとても気になるメールを頂戴した。オーストリア・ウィーンで暮らしていたころの川嶋ご一家の写真6点が添えられており、当時のそれぞれの状況について考察されたという。



 

◆勤務先・学校の位置

まずは、きさらぎさんからのメールを、ほぼ原文のまま紹介させていただきたいと思う。

川嶋家のウィーン時代の画像をいくつか見つけましたので、思ったことを書きたいと思います。

 

Wikipediaによれば、紀子さまの父上、川嶋辰彦氏の経歴には「1977年~1979年、国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリア・ウィーン)主任研究員」とあります。家族も一緒の海外での研究生活で、それは紀子さまが11才~13才の時でした。

 

紀子さまは、アメリカ・インターナショナル・スクール・イン・ヴィエンナの6年に編入したそうです。

 

 

 

地図でIIASAの場所を調べると、市街地よりはだいぶ南に位置する、むしろ山に近い田舎にあることがわかります。そして紀子さまが通われた学校は、ウィーン市街地から離れた北西部にあります。ご一家の当時の住居は学校に近かったと推察されます。

 

 

 

ウィーンの市街地北東、ドナウ運河の向こうには国連やその関連施設があり、現地の日本人コミュニティーの間でも、社会的・経済的・文化的にもハイレベルな土地柄と見なされるようです。

 

また、付近にはウィーン日本人国際学校がありますので、友達作り、なじみやすさなどを考えれば、そちらの学校に入った方が良かったと思いますが、何らかの理由により敬遠したのでしょうか。

 

◆住居は?

住居については、著名人でも市街地または近郊の高層住宅内に自宅を所有するか、一戸建てならけっこう離れた郊外に暮らす、ウィーンとはそういう街です。川嶋家の住まいは地理的にもだいぶ田舎にあったのでしょうが、写真を見る限り上等な造りではない感じで、経済的に厳しい状況だったのかもしれません。

 

 

 

なお、紀子さまはブラウスの袖や刺しゅうがチロル風で、ウエストにもいわゆるチロリアンテープをあしらった、お土産屋さんにもたくさんある可愛らしいチロルの民族衣装を着ている写真もありますね。

 

◆馬のお世話をしていらっしゃったのでは?

ところで、川嶋辰彦氏は馬をお世話するお仕事をしていたのではありませんか? 何かの経験を買われ、日本へ帰国後、学習院馬術部の職を得ることになったように思います。

 

ウィーンには、音楽を筆頭に、海外からのとても多くの留学生が来ています。東欧からの貧しい移民も多く、街頭で新聞を売ったりもしていました。学生たちはいろいろなアルバイトをしており、有名なニューイヤー・コンサートのチケット並びも学生のアルバイトだと聞きます。

 

この頃に撮影されたと見られる画像のひとつに、ラフな服装の紀子さまが厩舎で馬と一緒に写っているものがあります。

 

 

 

馬といえば、観光の目玉のひとつでもあるスペイン式宮廷馬術学校がありますが、そちらは「白馬」限定です。ウィーンでは街中を観光馬車が走っており、乗馬学校も多数あります。川嶋氏は、経済的な必要があって、どちらかで馬の世話の仕事をしていたということはないでしょうか。

 

弟の川嶋 舟さんは馬の研究が多いことで知られているが、こういった写真が紀子さまもあったわけだ。



 

◆祖母の存在

祖母の川嶋 紀子(いとこ)さん。このお方もウィーンで一緒に生活されていたのでしょうか?

 

複数の写真に姿が見られることから、川嶋家は三世代で一緒に生活していたことも考えられます。絵を描かれるので、脇にキャンバスを抱えているご様子ですが、いつも乱れた着物姿で、少し怪しまれてしまったのではないかと心配にもなります。

 

祖母と孫が「紀子」という同じお名前を共有していらっしゃることもですが、川嶋家については、謎が多くあると思います。

 

今回はウィーン時代に目を向けてみました。その結果、経済的に苦しそうなことだけはよく理解できましたが、それ以外の謎はますます深まるばかりです。

 

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以上が、きさらぎさんから頂戴したメールの内容である。

きさらぎさんは他の写真も数点送って下さっており、そこで筆者が気になったことも綴らせていただきたいと思う。

 

◆観光名所での写真は?

まず、ウィーンの有名なシェーンブルン宮殿を背景に撮影したのかもしれない、こちらの1枚。

 

 

ちゃんと中に入って見学をしたなら、もっと良い角度からの素晴らしい記念写真が撮れるはずなのに、なぜこんな場所からなのだろうと不思議に思う。

そして、幼い舟さんの服装。誰よりも体温が高い年齢であろうに、よくタートルネックの長袖セーターにボアのようなジャケットまで羽織っていたものだ。紀子さまは半袖で、ご一緒の女性も涼しげなスタイルだというのに…。

 

考えてみると、公開されている写真にはオーストリアが誇る観光名所の写真が殆どない。

 

西にちょっと旅をしてザルツブルクを訪れれば、世界一美しいとされる湖畔のハルシュタットや、サウンド・オブ・ミュージックのロケ地を回る旅もある。また、紀子さまがピアノをお上手なら、旧市街地(素晴らしい観光地)にはモーツアルトの博物館とも言える生家がある。

さらにドイツのミュンヘンに向かい、そこを越えれば有名なノイシュバンシュタイン城があるではないか。

 

こちらもちょっと不思議な1枚である。おそらく昔のライン川クルーズであろう。舟さんは揺れる水面や橋が怖くてお母様にしがみついておられるように思うが、クルーズ中の美しい光景の写真が無いということは、実際に船には乗っていなかったのかもしれない。

 

 

地域を問わず、海外赴任では日本人が多い安全な土地のきちんとした住宅があてがわれるはずで、例えば物価がまるで異なるニューヨークなどでも東京並みの生活水準を保てるよう、調整された額が給与(あるいは手当として)に上乗せされるもの。公務員、民間の企業戦士、研究職を問わず、現地に赴くと皆さんご家族とともに「観光名所を貪欲に見て回る」という印象が昔からある。

 

◆影が不自然

こちらはネットではかなり有名な写真。きさらぎさんがおっしゃっていた、紀子さまのチロル民族衣装風お洋服が本当に可愛らしい1枚だが、筆者には影のできかたが異様だと感じる。

辰彦氏のベージュのズボンに落ちた舟さんの影は、非常にはっきりとしている。そして、辰彦氏の影も足元の向かって左側の枯草にしっかりと出来ている。それならなぜ、紀子さまの足元の左側にはそういった影ができていないのだろうか。

 

◆腕が何本もある 

上でも紹介していたこちらのお写真。あまりにも奇妙すぎて、筆者は「本当にその学校に通っていたの?」とさえ疑いたくなった。

 

 

まず、緑色の丸で囲んだ部分にある右手親指は、一体誰のものだろう。左の女の子と紀子さまの間に、女の子の横顔がわずかに写っているが、その子は若干遠いように感じる。すると、この右手は長すぎる上に、左の大腿骨付近が前に出過ぎている(小さな青い丸)。

そして腕の数にご注目を。紀子さまの右腕は青の場所に確認できる。小さな青い丸の右半分が紀子さまの前腕であろう。となると、黄色の腕は2本とも左の女の子のものなのだろうか。

 

◆「1975年から1990年」までのどこでアスベストへの被爆が?

ところで辰彦氏は2021年11月4日、中皮腫のため聖路加国際病院にて亡くなられた(享年81)。中皮腫の原因は8割以上がアスベスト(石綿)の吸入とされており、石綿を吸い込んでから30~40年後に発症し、いったん発症すると1年で半数、2年で8割の患者さんが亡くなるという。

つまり発症は2020年あたりで、ちょっと範囲を広めにとると、1975年から1990年までのどこかでアスベストへの被爆があった可能性がある。辰彦氏は1977~1979年まで国際応用システム分析研究機構(IIASA)の主任研究員としてオーストリアで過ごしたが、その後は日本である。

もしや学習院大学にあった古い厩舎が原因かも…と考えてもみたが、紀子さまが馬を引くお写真があるなら、オーストリア時代の可能性も考えなければならないだろう。

AIに尋ねてみたところ、「古い厩舎、特に1970年代から1980年代初頭に建てられた建物では、屋根材、壁材、天井材などにアスベストが使用されている可能性が高いため、注意が必要です。アスベストは、1960年代から1980年代半ばにかけて、断熱性や耐火性に優れた建材として広く使われていました」とのこと。これは日本に限らず、同じ年代に世界規模で起きていたことである。

Google MapでIIASAの付近をたどってみたところ、南西方向500ⅿほどのところに、街で最大規模の「Reitstall Laxenburg Equisport」という乗馬施設があった。乗馬クラブや牧場などが多いオーストリアゆえ、何か副業をするのであれば、ドイツ語の力をそう求められない厩舎でのアルバイトが打って付けではないだろうか。

 

◆まとめ

きさらぎさんからのメールで一番気になったのは、「川嶋辰彦氏は馬をお世話するお仕事をしていたのではありませんか?何かの経験を買われ、日本へ帰国後、学習院馬術部の職を得ることになったように思います」という部分である。

学習院大学の馬術部のために何らかのお仕事をされていた辰彦氏だが、そのためにはとにかく過去の実務経験、実績が必要なはず。きさらぎさんも想像していらっしゃったように、経済的な理由から副業をする必要があって、オーストリア時代にどちらかで馬の世話の仕事をしておられたというのは、あながち嘘ではないと感じる。

なお、おかしな合成写真を出してくるのは、秋篠宮家ならもう毎度のこと。そう驚きもしなくなったが、それが皇族のすることだと思うとあまりにも残念でならない。

(朝比奈ゆかり/エトセトラ)

画像および参考:
『Wikipedia』川嶋辰彦

『Google Map』IIASA

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