【皇室、徒然なるままに】第11話 瓦解する菊のカーテン(The chrysanthemum curtain is collapsing)中篇:その1 西村 泰一

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尊王論の物神化としての菊のカーテン《王政復古と尊王論》

この中篇では、いわゆる「菊のカーテン(The Chrysanthemum curtain)」が、尊王論の残滓(ざんし)、あるいは昔流行ったマルクス主義的言い回しを用いるならば、物神化(fetishization)に他ならないことを論じる。

 

昭和16年12月8日、大東亜戦争の対米英宣戦で米国の圧力の下、国民に向け決意を述べる東条英機首相(画像は『YouTube』のスクリーンショット)
昭和16年12月8日、首相・陸将・内相などを兼ねていた東条英機は、米英に宣戦布告。真珠湾攻撃から太平洋戦争が開戦となった(画像は『YouTube』のスクリーンショット)

“物神化”とは一口で言うと、ある種の観念や制度を神聖不可侵なものと見なし、さらに神のごとく信仰対象のように扱うことを指す。この用語に慣れていない読者も多いかと思われるので、それを用いた例文をいくつかあげておく。いずれも内田隆三の著書『社会学を学ぶ』からの引用である。



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この種の病理的行動は、より一般化していえば、表面上の「形式合理性」はもつとしても、「実質合理性」はもたないような行為類型に当たる。そこでは「手段の物神化/目的の疎外」が起こっている。組織における規範への過剰同調は、しばしばこの種の逸脱を分泌する。

 

だが、市民社会の物象化が高次化していくと、その効果は家族の内部にも浸透していく。家族という共同態自体が物象化、物神化の力に曝されるからである。それは家族の共同性が貨幣の媒介を受けたさまざまな機能的等価物によって代替され、家族の実質が剥がれていくことを意味している。

 

また「資本」も物象化され、自己増殖する価値として神格化される。こうした客体の神格化、すなわち「物神化」と対応するように、主体であるはずの人間がそれらの物神を崇拝する僕となり、奴隷となる。資本制によって物象化された世界では、「人間=主体の疎外」と「物=客体の神格化」がペアになって成立する。

 

マルクスによれば、物象化、そしてそれに伴う物神化は「倒錯した意識」の現象である。ただし日常の意識は、この倒錯を自然で自明なものとしている。

 

資本主義社会の日常意識は、物象化のメカニズムを通じて、「商品物神」の崇拝、「貨幣物神」の崇拝にはまり込んでいく。マルクスが明らかにしようとしたのはこの物神化のプロセスとその必然性であった。

 

◆建武の新政ー失敗した王政復古

日本史において本来の天皇制への回帰という意味での王政復古がなったことが2度ある。一度目は後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の折であり(所謂”建武の新政”)であり、今一つは幕末の尊王攘夷運動においてである。

後醍醐天皇はクーデターにより鎌倉幕府を打倒した。 この倒幕には、足利尊氏、楠木正成、新田義貞らが、多大な貢献をしている。しかし後醍醐天皇は、その後軍事力の中核であった実子護良親王を粛清した事と失政により失脚し、吉野を中心とした一地方政権の主として生涯を終える。

彼が目指したのは、平安時代中期(10世紀)の醍醐天皇と村上天皇による所謂延喜天暦の治の復古であったが、延喜天暦の治は後醍醐が信じたような天皇親政の黄金期なんかではなかったし、況や300年以上の時の流れを経て、貴族の世から武家の世にすっかり様変わりした現実に即応するものでもなかった。

後醍醐天皇の”後醍醐”という名前は「”醍醐天皇”に肖るように」と彼自身が選んだものである。また後醍醐天皇の皇子の後村上天皇は、村上天皇に肖るようにとつけた名前である。このあたり、名は体を表すということで一貫している。

いずれにしても、建武の親政は数年で終わり、足利尊氏による室町幕府に道を譲ることになる(建武の乱)。結果として敵同士となってしまう尊氏と後醍醐であるが、お互いを尊敬する念は終生変わることがなかった。後醍醐なくして室町幕府はありえなかったし、尊氏なくして建武の新政はなかった。

“尊氏”の”尊”は元々”高氏”だったのを、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名したものである。

暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。しかし翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、敵であったと言ってもいい後醍醐天皇の菩提を弔うため、北朝の治天である光厳上皇に奏請し、院宣を以って天龍寺の造営に着手している。

歴代の天皇において、後醍醐天皇というのは良い意味でも悪い意味でも個性的な天皇であった。たとえば先代の花園天皇は、後醍醐のことを、その日記に「王家の恥」「一朝の恥辱」と書いている。

(そう言えば、今の皇族のなかにも、他の皇族方からそんな風に陰口を叩かれる方がいらっしゃるとか。お名前は誠に失礼ながら失念しましたが…。)



公卿吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠親房の息子で北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪かったため、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる。

また、正徳の治の一翼を担った新井白石は、『読史余論』のなかで「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は『中興鑑言』で、また頼山陽は『日本外史』で、遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。

否定的評価ばかりをあげてきたので、少し肯定的評価にも目を移してみることにする。『太平記』流布本巻1の「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の後醍醐の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関)に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだ様子が描写がされている。

記録所の開廷は午前10時ごろで、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席。同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという。

とにかく後醍醐というのは面白い人で、桁違いにエネルギッシュな御仁である。評価はとりあえずおいて、足利尊氏が惚れ込んだというのもよくわかる。”赤坂の昼行灯”の異名をとる皇嗣の方も、少し見習ってほしいものである。

後醍醐天皇については、元弘の変で捕らえられ隠岐に配流された折に詠んだ次の二句を上げて、終わりとしたい。

 

あはれとは なれも見るらん 我民と 思ふ心は 今もかはらず

 

(流刑者として連行される私のことを、「あはれ(哀れ)」と、あなた方も思うのだろう。だが、私もまた、あなた方を我が民として「あはれ(尊い)」と想う気持ちは、今も変わらないのだよ)

 

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見んとは

 

(都にいたころは想像するしかなかった、民のかまどの煙を、これほど身近に見ることができるなんて。私が尊敬する仁徳天皇が、感極まって歌を詠んだ時に見たのも、このような光景だったのだろうか。こうしてみると、配流というのも悪いことばかりではないのだな)

 

◆江戸期の尊王論

― 朱子学 ―

どのような支配体制も、その支配を正当化する大義名分を欲するものである。例えば、21世紀を俟つことなく既に終焉を迎えてしまったが、東ヨーロッパやバルト3国までも包摂する、ソビエト帝国を支えたイデオロギー的基盤はマルクス主義であり、自分たちは資本主義に代わる社会主義体制を構築したということを標榜していた。

翻って徳川幕藩体制をみるに、その支配イデオロギーとして朱子学を採用している。朱子学というのは、中国の南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系で、大学、中庸、論語、孟子を経典とする。日本では藤原惺窩や林羅山によって、徳川幕府の支配を正当化するイデオロギーとして練り上げられた。

ここで強調されるのは「君主に対する忠」であるが、中国の場合は、その王朝の皇帝に対する忠で議論の余地はない。しかるに日本では、平安時代が終わって武士の時代になると権力の二重構造というべき様相を呈し、例えば源頼朝は、後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開くのである。つまり天皇の下に将軍がいるのである。

したがって、形式論としては将軍も天皇に対して忠であることを要求され、将軍に対する忠は、天皇に対する忠によって取って代わられる可能性を排除できないのである。こうして朱子学は、倒幕のイデオロギーに転化する可能性を孕むのである。実際倒幕のイデオロギー的基盤となったのが、後期水戸学であり、山崎闇斎や浅見絅斎であった。

 

― 水戸学 ―

第2代水戸藩藩主徳川光圀(娯楽時代劇の水戸黄門)の指示で始められた大日本史(完成は明治になってから)は、歴史上の事実を明らかにし、そこに名分の観点から価値評価を与え、道徳的観点から勧戒をはたすことが意図されていた。この徳川光圀を中心に据えて形成された学風が、前期水戸学と呼ばれるものである。

18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機を、いかに克服するかについて独特の主張をもつようになった。それが後期水戸学と呼ばれるもので、第9代水戸藩藩主徳川斉昭(なりあき)を中心に育まれるのである

後期水戸学の主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は、藤田幽谷(ゆうこく)。幽谷は寛政3年(1791)に『正名論』を著わして、「君臣上下の名分を厳格に維持することが、社会の秩序を安定させる要である」とする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えた。

幽谷の思想を継承・発展させたのが、門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子、藤田東湖(とうこ)である。正志斎は文政8年(1825) 3月、『新論』を著わした。

『新論』は同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざすための、政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。

ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理と、それに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも、『新論』が最初である。

代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、天保期(1830-44)に藩政の改革が実施されたが、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの、 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。

『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、『弘道館記述義』は日本の社会に生きる人々の「道」。すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。

東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」で結びついている国家体制を「国体」とし、その「忠愛の誠」に基づき、国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説いている。

したがって、「天地正大の気」こそが建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮し、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。

要するに水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。

そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのである。水戸学者には、前記の会沢正志斎・藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいる。

 

― 浅見絅斎 ―

山崎闇斎の門下を崎門と称するが、浅見絅斎は、佐藤直方(さとうなおかた)や三宅尚斎(みやけしょうさい)と並んで”崎門の三傑”と称される。勤王主義的な大義名分論を唱えた。代表作は『靖献遺言(せいけんいげん)』で、楠木正成を敬い、望楠軒(ぼうなんけん)と号している。

尊王論者が弾圧された最初の事件が所謂宝暦事件で、18世紀半ばの話であるが、その首謀者である竹内式部は、望楠軒で学んでいる。

 

― 光格天皇 ―

江戸時代後期の天皇で、1780年に践祚し、39年間在位して、1817年に退位している。強烈な皇統意識と君主意識を持ち、朝廷の権威の強化に努め、尊号事件を起こしている。

尊号事件というのは、天皇は実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を送りたいという意向を示したが、幕府はこれを拒否、これに対して、天皇は公卿に意見を問い、圧倒的支持を背景に、押し切らんと図ったものである。

驚いた幕府は、天皇側近の公家2名を江戸に召喚して、処罰している。従前、朝廷と幕府との交渉は、力関係を背景に、武家伝奏という幕府との連絡役にあたる公家が、二条城脇の京都所司代の屋敷に出向くという形式であったが、光格天皇は、所司代が武家伝奏の屋敷に出向くべきであると主張した。こうした流れのなかで、前記の尊号事件は起きている。

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★【皇室、徒然なるままに】尊王論の物神化としての菊のカーテン、今後のご案内です

第12話・中篇その2=尊王思想が生んだ大日本帝国

【江戸期の尊王論】
― 尊皇攘夷運動 ―

【尊王論が生んだ大日本帝国】
― 蘇る律令制 ―
― 福沢諭吉の皇室観 ―
― 伊藤博文の皇室観 ―
― 明治天皇 ―
― 乃木希典の殉死 ―
― 大正天皇 ―
― 御真影 ―

第13話・中篇その3=暴走する大日本帝国
― 不敬罪 ―
― 昭和天皇 ―
― 現人神 ―
― 昭和維新 ―
― 昭和維新の思想と天皇観 ―
― 近衛文麿 ―
― 東條英機 ―
― 昭和天皇の戦争指導 ―
― 大東亜共栄圏 ―

以上の順でお送りする予定です。どうぞご期待ください!

(理学博士:西村泰一/編集:エトセトラ)

 

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【解説】
『あゝ紅の血は燃ゆる』は、1944年の戦時歌謡の一曲。副題は『学徒動員の歌』である。第二次世界大戦末期、労働力不足に陥っていた日本は1943年3月、勤労学徒動員令(学徒動員)の発令により、中学生までもが軍需産業に携わることになった。

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『Amazon』社会学を学ぶ (ちくま新書) 内田隆三著

『茨城大学図書館』 水戸学

『YouTube』Ramon Nakahashi ― あゝ紅の血は燃ゆる

『YouTube』 JP Historical Records ― 東條英機 演説 / Speech by Hideki Tojo

『YouTube』ふきのゆっくり歴史館 ― 【ゆっくり歴史解説】 後醍醐天皇 南北朝時代と言えばこの人!諦めずに鎌倉幕府倒幕を続け、建武の新政や南朝を樹立した賛否両論ありまくりな天皇は一体どんな生涯だったのか簡単に紹介