【YOUR VOICE】Wikipedia「川嶋辰彦」と学習院が公表していた「略歴」では1966年~73年がかなり違う
※ こちらは8月23日付の【YOUR VOICE】白髭を伸ばし、巌窟王のように見えた晩年のカワタツ氏、気が狂わんばかりの悩みを抱えておられたかに対し、読者様から寄せられたコメントです。
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川嶋辰彦氏は、学習院では特殊部落を訪問するゼミを受け持っていたそうです。この時代に学校現場に吹き荒れた思想的背景から、「学習院でも同和教育をやっている」とのアリバイが必要となり、急遽用意された枠だったのではなかったのでしょうか。
また一説には、どこかで教えている時代に女子学生といい仲になってそこも辞めさせられ、失職中に厩務員として学習院大の乗馬部に拾ってもらったという話もありました。そこで公表されている情報を比較してみます。
①wiki川嶋辰彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E8%BE%B0%E5%BD%A6
②wiki文仁親王妃紀子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E7%B4%80%E5%AD%90
③学習院大学「川嶋辰彦教授略歴ならびに著作目録」(ウェブ魚拓より)
https://web.archive.org/web/20151106172722/http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/contents2006/4704/4704kawasima_ryakureki/4704kawasima_ryakureki.pdf
① では…
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1966年、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了
1969年、ペンシルベニア大学大学院修士課程修了
1971年、ペンシルベニア大学大学院博士課程修了、同年Ph.D. in Regional Science取得
1972年、ペンシルベニア大学大学院専任講師
1973年、学習院大学経済学部助教授
1976年、学習院大学経済学部教授
1977-1979年、国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリア)主任研究員
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であるのに対し、学習院大が公表していた「川嶋辰彦教授略歴ならびに著作目録」によると…
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1964年 東京大学経済学部卒業
1966年 同大学大学院経済学研究科修士課程修了
1966年 同大学教養学部助手等を経て
1971年 ペンシルバニア大学大学院博士課程修了
同年 Ph. D. in Regional Science 取得
1972年 同大学ウォートンスクール大学院地域科学部専任講師
1973年 学習院大学経済学部助教授
1976年~2011年 学習院大学経済学部教授
1977年~1979年 国際応用システム分析研究機構(IIASA, 所在地オーストリア)
主任研究員(長期研修)
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この両者を比較すると、1966年から73年の間にかなりの「違い」があるのです。
学習院の履歴で疑問なのが「1966年 同大学教養学部助手等を経て 1971年 ペンシルバニア大学大学院博士課程修了」部分であり、自由に編集ができ、一番盛り付けの著しいwikiにすら出てこない「1966年 同大学教養学部助手等を経て」が引っかかります。
東大教養学部で助手をしていたという意味の職歴ですが、もし事実なら一番誇ってもいい履歴なのに、wikiでは一行も触れられていません。
また「等」も引っかかります。東大で修士号を得ているのに、アメリカでもう一度修士課程からやり直したにしては、学習院大では「ペンシルバニア大学大学院」の修士課程入学と修了歴と時期をまったく触れていないのも変です。
そこで②文仁親王妃紀子wikiをみると…。
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>1966年(昭和41年)9月11日、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市の恩賜財団済生会静岡済生会総合病院(当時寬仁親王が総裁)にて誕生。
父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、一家で渡米。
6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごす。
1969年(昭和44年)9月、同州フィラデルフィアのローズモント大学付属ローズモント・トゥリニティー・スクールに入園。この間に自由学園幼児生活団通信グループを卒園。
1970年(昭和45年)9月、同州のセント・メリーキンダーガーデンに入園。1971年(昭和46年)9月、フィラデルフィア市立ヘンリー・C・リーエレメンタリースクール(Henry C. Lea Elementary School)に入学。
1973年(昭和48年)父の辰彦が学習院大学助教授に就任したため一家で帰国し同年6月、静岡市立中田小学校の一年に編入学。同年9月には新宿区戸山へ引っ越し新宿区立早稲田小学校に編入学。1975年(昭和50年)4月には、 豊島区目白の学習院職員寮に引っ越し豊島区立目白小学校三年に編入する。<
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ここでも何故か「父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、一家で渡米。6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごす」と渡米時期の記載がなく、曖昧にごまかされているように見えます。
辰彦氏が東大院を卒業したという1966年3月から、アメリカで幼稚園入園したという1969年9月の直前まで、一体この父はどこで、何をしていたのかが不明のままなのです。
学習院が1966年からの職歴に「等」を入れ、東大教養学部での助手採用の始期と終期には触れず、アメリカでの大学院入学につき、修士課程か博士課程か、またその入学時期も触れていないことが大変気になります。
学費も奨学金なら経歴に明記されるものですが、それもないし、どこか日本の大学に就職してから校務で派遣されたようでもありませんから、ここも私費留学なのか、ちょっとはっきりしません。
ただいえることは、1966から1970年は東大紛争真っ只中であったことです。受験戦争も激化しており、東大卒で研究者志望の人は予備校などでも働いていました。
また、正式に採用されていない自称助手もいたわけで、OD(オーバードクター/博士課程で所定の単位を修得した後も定職に就けず、研究を続けている人のこと)などぶらぶらしている先輩を助手先生と呼ぶことはよくあり、「○○研究室で助手のようなことをしていた」という言い方はあちこちでみられました。
東大では大学研究室への入退館が電子化される以前は、24時間誰でも自由に出入りでき、下宿代が惜しいと布団を持ち込んで生活の場にしていた学生もいたし、せいぜいが無給助手(よくていわゆる教務職員)ではなかったか、とも考えられるのです。
その観点からすると、厩務員としての学習院馬術部への就職採用が意味するところは、学生の部活に使うお馬の世話や管理をする教育の仕事であると本人は理解し、教務職員にでも採用されたつもりではなかったか、といえなくもないでしょう。
昔の学習院では乗馬は必須科目でしたが、現在大学での体育の授業は、文学部と理学部しかなく、そこでは乗馬は正式科目としては存在しないようです。が、皇族とも親しく会話する機会がありうる馬丁だけに、学習院のなかでも最も上流学生たちが集う運動部の一角にスタッフとしてうっかり参加を許したことが、後の皇統簒奪を企む素地と人脈づくりになっていったのではないかと遺憾に思います。
本来、学習院が辰彦氏の経歴を「等」にせず、はっきり列挙していればこんな疑惑が産まれる余地はなかったはずなのですが、学習院の与り知らないところでの話なので、敢えて知らぬ顔でこうしているのかとも思われます。学習院採用前の経歴は、本人の自己申告によるしかないですから。
(コメント欄:匿名さんより)
※ 誠に勝手ながら一部文章を削除させていただきました。ご了承下さいませ(朝比奈)
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だいぶ前、学習院のどなたかが
学習院でカワタツさんを雇わなければこんな事にならなかった。申し訳ない、と言ったというコメントをみました。皇室御用達の様なしっかりしなければいけなかった学習院が、こんないい加減なヒトを雇い、娘が皇族と結婚が決まったからといって、厩務官の身分だったヒトを教授に格上げにした事自体無理があったと思います。こんなに勘違いさせてどうするのでしょうか。
文という字に込められたメッセージ②
2025年09月04日「ブログ、ブルーサファイア」でご覧んを、、
>人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を描くという象形文字なのだそうです。
紀元前17世紀ごろ、中国では入れ墨という刑が存在していた!
こういうことって、A宮さんが生まれて名前を発表するまでの間数日で、昭和天皇とこういうことに関係する職員が考えて決められたのですかね。
凄いですね。
ちなみに陛下の「徳」という字の象形を調べたら
まっすぐな心で人生を歩む、でした。
まだあります。
「文」の漢字は「美しさ」や「彩り」を意味し、外見を飾り立てるという意味合いがあります。
このため、異性関係において羽目を外しやすい、失敗しやすいというネガティブな意味を持つとされることがあるようです。
このような意味合いが名前に含まれることで、その子の人生において異性との関係におけるトラブルや誤解を招く可能性があると考えられます。
(詳しくは本文で)