【YOUR VOICE】白髭を伸ばし、巌窟王のように見えた晩年のカワタツ氏、気が狂わんばかりの悩みを抱えておられたか

この記事をシェアする
※ こちらは8月22日付の【YOUR VOICE】有名観光スポットではないのが不思議 川嶋家パリ家族旅行写真は「3枚」を合成かに対し、読者様から寄せられたコメントです。髭を伸ばした川嶋辰彦氏のお姿に驚いた人は多いと思います。

••┈┈┈┈••✼✼✼••┈┈┈┈••

 

この方が最後沖縄に住み、あちらの大学で教えるなどしながら、まるで寿老人のような姿、見ようによっては巌窟王のようになって、白髭を伸ばし放題にしているのをみて、何か気が狂わんばかりの悩みを抱えているのだな、との印象を受けました。

風変わりなホームレス老人ならまだしも、皇室の外戚ともなれば、世間体があるので清潔な身なりを心がけるのは当然なのに、何かに目に見えないものに抵抗してなのかわざとこうしているのかと、うすうすその心的葛藤を推察してきました。

憧れ望んで皇統簒奪の企てに協賛したものの、ショラテンの祖父になるには一家には隠し事が余りにも多すぎたのか、ある時点から皇室を乗っ取る快感が、苦痛や悔悟の念へと変質し、相談相手もなく、理解者のいない孤独が、ここまで晩年の風体を変えてしまった原因なのかと恐ろしささえ感じたものでした。

恫喝で抑え込んではみたものの、娘の七代遡る出自調査の不安はいつまでも消えることはなく、代理母に産ませた孫らにも優秀な子はおらず、皇籍も戸籍もない同名の子らが最後どのような結末を晒すか、それを考えただけで因果応報の思いが募り、気が変になったのではないでしょうか。

おもえば「娘を皇室に」との出来心を起こしたことが全ての不幸の始まりでした。

それまでは何とか回ってきた家族関係も、これで一挙に緊張し、世間の冷たく蔑む視線を痛いほど感じては、癇癪も起き、夫婦仲もおかしくなり、重婚という噂まである娘の夫婦関係は不仲続きで息子も離婚。家の中どこにも本当の幸せはなかったのです。皇族の外戚を目指して背伸びした分だけ、何倍ものしっぺ返しとなって、元も子もなくす典型に陥ったように思えるのです。

(コメント欄:匿名さんより)

****************

【YOUR VOICE】について

こちらは、普段ブログをお読みいただいている皆さまに、ご参加いただけるコーナーです。

皇位継承問題、現在の皇室典範、宮内庁はココがおかしい。そしてマスコミや週刊誌の適当な報道。

「もう黙ってはいられない」「私も言いたい」といった真剣な思いを、あなたも言葉にしてみませんか?

 

【ご協力をお願いしたいこと】

 

・メールで info@etcetera-japan.com へ。件名は「YOUR VOICE」でお願いいたします。

 

・簡単なタイトルもご準備ください。

 

・ご署名はお住まいの都道府県+イニシャルや仮名、またはSNSのアカウント名をご利用下さい。

 

・卑語の使用、デモやテロなどの危険な誘導、過激な表現はお断りいたします。

 

・弊ブログとは方向性が一致しない、男系男子論などの主張はお断りいたします。

 

・謝礼などはございませんが、どうぞご了承下さい。

たくさんの方のご参加をお待ちしております。



****************

【YOUR VOICE】について

こちらは、普段ブログをお読みいただいている皆さまに、ご参加いただけるコーナーです。

皇位継承問題、現在の皇室典範、宮内庁はココがおかしい。そしてマスコミや週刊誌の適当な報道。

「もう黙ってはいられない」「私も言いたい」といった真剣な思いを、あなたも言葉にしてみませんか?

 

【ご協力をお願いしたいこと】

 

・メールで info@etcetera-japan.com へ。件名は「YOUR VOICE」でお願いいたします。

 

・簡単なタイトルもご準備ください。

 

・ご署名はお住まいの都道府県+イニシャルや仮名、またはSNSのアカウント名をご利用下さい。

 

・卑語の使用、デモやテロなどの危険な誘導、過激な表現はお断りいたします。

 

・弊ブログとは方向性が一致しない、男系男子論などの主張はお断りいたします。

 

・謝礼などはございませんが、どうぞご了承下さい。

たくさんの方のご参加をお待ちしております。



12件のコメント

  • 低圧ナトリウムランプさま、ありがとうございます。
    佐藤豊子氏は「疑惑のパリ写真」にも写っている方なので、交流はあったようですしね。

  • 低圧ナトリウムランプさんの御指摘にあるように、写真展を開催するほどなら、当然ラボをよく知っており、合成写真の依頼方法も熟知していて不思議ありません。また、ルイビトンの建物を意識して撮影していた可能性も高まります。

  • >きさらぎ様 2025年8月24日

    >匿名様 2025年8月24日
    >キコさん、父上、伯母様、弟君と皆さん経歴詐称なの?
    の投稿及びamebablog見て、佐藤豊子氏の経歴調べましたが、hmvサイトによれば

    >1990年『文芸春秋』『婦人の友』他に、家族に関するエッセイを執筆。雑誌・新聞・TV等に内外で撮影した写真が掲載される。1994年写真個展『光と影』開催。

    1990年に写真を世に出していたのであれば、彼女は個人として画像加工に長けていた可能性があります。

    先日のコメント書く時に忘れてました(こういうおバカなミスを自戒したハンドル名なのに)。1980年代の終盤であれば、Machintoshで結構な画像加工ができていたかも。「車を買うかマックを買うか」という言葉もあったくらいで、高嶺の花だが画像方面の能力は高かったはず。当時のマックユーザーがいれば、意見をお聞かせ願いたいところです。

    (当時私は、職場ではメインフレーム間借りやEWSで科学技術計算、PC98で文書作成という具合で、私用のPC買ったのは92年)

  • 「パリ市庁舎前」って申告している時点で、嘘バレバレの辰彦さんですねー。
    卒業写真集では昔から集合写真撮影時に欠席だった子を合成してきました。いまも盛んとやってますが。
    AIの回答でも
    「フィルム時代の卒業アルバムに人物を後から「合成」する方法は、写真技術が現代とは異なり、物理的な編集作業が必要でした。具体的には、複数の写真を重ねて露光させる「ソフトフォーカス」のような技術や、印画紙に写真を焼き付け、その上から手作業で絵や文字を書き込む、あるいはトリミングして別の台紙に貼り付ける「コラージュ技法」などです。
    以下に、具体的な方法を説明します。
    1.複数枚の写真を重ねる方法(後処理に近い)
    ソフトフォーカス:
    複数の写真を同時に現像することで、特定の部分だけ重ね合わせるように見せる手法です。例えば、主役の人物を別々に撮影し、背景の風景と同時に現像する際に、人物の部分だけを重ねるように位置を調整しながら焼き付けます。
    マスク焼き付け:
    写真を現像する際に、不要な部分を覆い隠し、露光させないようにする「マスク」という道具を使用しました。この技術を応用して、複数のネガから異なる部分を切り取って貼り合わせ、光を当てることで合成写真のように見せることができます。
    2.手作業でコラージュする方法
    写真の切り抜きと貼り付け:
    卒業アルバムでは、人物写真や風景写真を撮影した後、それらを切り抜いて、台紙に貼り付けて配置する「コラージュ」と呼ばれる手法もよく使われました。
    印画紙への手作業:
    印画紙(焼き付けた写真)の上から、絵の具やマーカー、ペンなどを使用して、手書きで絵や文字を書き込んだり、装飾を施したりすることで、写真に情報を追加したり、複数の写真を組み合わせるような表現をしたりしていました。
    3.現代とは異なる点
    フィルム時代では、デジタルのような高度な画像編集ソフトがありませんでした。そのため、合成するには、物理的に写真を切り貼りしたり、現像の段階で光の当て方や露光時間を工夫したりする、職人的な技術が求められました。
    このプロセスは、デジタルで簡単に合成する現代とは異なり、写真技術の知識と熟練した手作業が不可欠でした。」

    わたしは「マスク」でやっているのではないかと考えています。フェンスの網目は後から手書きで誤魔化したから、左右でメッシュの模様が違ってしまったのではないでしょうか。

  • 川嶋辰彦氏は、学習院では特殊部落を訪問するゼミを受け持っていたそうです。この時代に学校現場に吹き荒れた思想的背景から、「学習院でも同和教育をやっている」とのアリバイが必要となり、急遽用意された枠だったのではなかったのでしょうか。

    また一説には、どこかで教えている時代に女子学生といい仲になってそこも辞めさせられ、失職中に厩務員として学習院大の乗馬部に拾ってもらったという話もありました。そこで公表されている情報を比較してみます。

    ①wiki川嶋辰彦
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E8%BE%B0%E5%BD%A6

    ②wiki文仁親王妃紀子
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E7%B4%80%E5%AD%90

    ③学習院大学「川嶋辰彦教授略歴ならびに著作目録」(ウェブ魚拓より)
    https://web.archive.org/web/20151106172722/http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/contents2006/4704/4704kawasima_ryakureki/4704kawasima_ryakureki.pdf

    ① では…

    ****************
    1966年、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了
    1969年、ペンシルベニア大学大学院修士課程修了
    1971年、ペンシルベニア大学大学院博士課程修了、同年Ph.D. in Regional Science取得
    1972年、ペンシルベニア大学大学院専任講師
    1973年、学習院大学経済学部助教授
    1976年、学習院大学経済学部教授
    1977-1979年、国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリア)主任研究員
    *************************

    であるのに対し、学習院大が公表していた「川嶋辰彦教授略歴ならびに著作目録」によると…

    ****************
    1964年 東京大学経済学部卒業
    1966年 同大学大学院経済学研究科修士課程修了
    1966年 同大学教養学部助手等を経て
    1971年 ペンシルバニア大学大学院博士課程修了
    同年 Ph. D. in Regional Science 取得
    1972年 同大学ウォートンスクール大学院地域科学部専任講師
    1973年 学習院大学経済学部助教授
    1976年~2011年 学習院大学経済学部教授
    1977年~1979年 国際応用システム分析研究機構(IIASA, 所在地オーストリア)
    主任研究員(長期研修)
    ****************

    この両者を比較すると、1966年から73年の間にかなりの「違い」があるのです。

    学習院の履歴で疑問なのが「1966年 同大学教養学部助手等を経て 1971年 ペンシルバニア大学大学院博士課程修了」部分であり、自由に編集ができ、一番盛り付けの著しいwikiにすら出てこない「1966年 同大学教養学部助手等を経て」が引っかかります。

    東大教養学部で助手をしていたという意味の職歴ですが、もし事実なら一番誇ってもいい履歴なのに、wikiでは一行も触れられていません。

    また「等」も引っかかります。東大で修士号を得ているのに、アメリカでもう一度修士課程からやり直したにしては、学習院大では「ペンシルバニア大学大学院」の修士課程入学と修了歴と時期をまったく触れていないのも変です。

    そこで②文仁親王妃紀子wikiをみると…。

    ****************
    >1966年(昭和41年)9月11日、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市の恩賜財団済生会静岡済生会総合病院(当時寬仁親王が総裁)にて誕生。
    父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、一家で渡米。
    6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごす。
    1969年(昭和44年)9月、同州フィラデルフィアのローズモント大学付属ローズモント・トゥリニティー・スクールに入園。この間に自由学園幼児生活団通信グループを卒園。
    1970年(昭和45年)9月、同州のセント・メリーキンダーガーデンに入園。1971年(昭和46年)9月、フィラデルフィア市立ヘンリー・C・リーエレメンタリースクール(Henry C. Lea Elementary School)に入学。
    1973年(昭和48年)父の辰彦が学習院大学助教授に就任したため一家で帰国し同年6月、静岡市立中田小学校の一年に編入学。同年9月には新宿区戸山へ引っ越し新宿区立早稲田小学校に編入学。1975年(昭和50年)4月には、 豊島区目白の学習院職員寮に引っ越し豊島区立目白小学校三年に編入する。<
    ****************
    ここでも何故か「父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、一家で渡米。6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごす」と渡米時期の記載がなく、曖昧にごまかされているように見えます。

    辰彦氏が東大院を卒業したという1966年3月から、アメリカで幼稚園入園したという1969年9月の直前まで、一体この父はどこで、何をしていたのかが不明のままなのです。

    学習院が1966年からの職歴に「等」を入れ、東大教養学部での助手採用の始期と終期には触れず、アメリカでの大学院入学につき、修士課程か博士課程か、またその入学時期も触れていないことが大変気になります。

    学費も奨学金なら経歴に明記されるものですが、それもないし、どこか日本の大学に就職してから校務で派遣されたようでもありませんから、ここも私費留学なのか、ちょっとはっきりしません。

    ただいえることは、1966から1970年は東大紛争真っ只中であったことです。受験戦争も激化しており、東大卒で研究者志望の人は予備校などでも働いていました。

    また、正式に採用されていない自称助手もいたわけで、OD(オーバードクター/博士課程で所定の単位を修得した後も定職に就けず、研究を続けている人のこと)などぶらぶらしている先輩を助手先生と呼ぶことはよくあり、「○○研究室で助手のようなことをしていた」という言い方はあちこちでみられました。

    東大では大学研究室への入退館が電子化される以前は、24時間誰でも自由に出入りでき、下宿代が惜しいと布団を持ち込んで生活の場にしていた学生もいたし、せいぜいが無給助手(よくていわゆる教務職員)ではなかったか、とも考えられるのです。

    その観点からすると、厩務員としての学習院馬術部への就職採用が意味するところは、学生の部活に使うお馬の世話や管理をする教育の仕事であると本人は理解し、教務職員にでも採用されたつもりではなかったか、といえなくもないでしょう。

    昔の学習院では乗馬は必須科目でしたが、現在大学での体育の授業は、文学部と理学部しかなく、そこでは乗馬は正式科目としては存在しないようです。が、皇族とも親しく会話する機会がありうる馬丁だけに、学習院のなかでも最も上流学生たちが集う運動部の一角にスタッフとしてうっかり参加を許したことが、後の皇統簒奪を企む素地と人脈づくりになっていったのではないかと遺憾に思います。

    本来、学習院が辰彦氏の経歴を「等」にせず、はっきり列挙していればこんな疑惑が産まれる余地はなかったはずなのですが、学習院の与り知らないところでの話なので、敢えて知らぬ顔でこうしているのかとも思われます。学習院採用前の経歴は、本人の自己申告によるしかないですから。

    ※ 誠に勝手ながら一部文章を削除させていただきました。ご了承下さいませ(朝比奈)

  • 〇動画コメント欄から拾ったカワタツ氏情報をいくつか:

    ・田舎の高校から東大なら話題になるはずだが聞いたことない(wikiでは都立戸山高校卒業)
    ・オーストラリアかニュージーランドで、福祉の勉強をしていた、とあったが?
    ・ペン大教職員名簿には記載なし
    ・東大にも記載なし

     

    〇カワタツ氏晩年は好々爺という情報も
    https://www.seizenkeiyaku.org/wp-content/uploads/2022/03/299.pdf

     

    生前契約のNPOりすシステムの会報p10~11
    〇「パリ市庁舎前の写真」ですが、読売の説明文「パリ市庁舎前で、左から佐藤豊子さん(伯母)、弟舟君、紀子さん、父辰彦さん、祖母紀子(いとこ)さんで記念撮影。11歳(昭和53年8月)

  • この傍系家に皇統を移すような愚行を行えば、出自や縁者達のアレやコレやをほじくり暴露合戦が内外のメディアで行われるのでは?過去を隠蔽すれば、その隠蔽自体を暴かれてさらに炎上するでしょう。まさに打つ手無し、終わっています。

    天皇制の価値は大暴落して廃止運動が巻き起こるでしょう。

  • それで、亡くなった日まで操作されて…………ですが。
    哀れな人生ですね。
    それでも娘は綺麗なおべべ着て、美味しいものをたらふく食べて、光らない宝飾品を付けて満足しているのでしょうから、目的は達成ではないですか?
    もう、この辺でよいのでは?娘も限界が来ていますよ。もう無理です。後は何が知られていない秘密ですか?
    大体はバレてますよ。

  • Xで挙がっていたキコ妃の容貌の変化、20代前半の若い時期から、現在の禍々しい、何かに取り憑かれた年配女性への道のりが、ご本人の想像以上の壮絶なものであった事が伺えます。
    昨秋の土耳古ご訪問時、現地メディアの忖度・修正無しのお写真を見ると、年齢以上に老け込み、やつれ、修正バッチリの国内写真との落差に驚くばかりです。
    ご結婚前のお妃教育から途中退場する程、勉学や努力から逃げ回り、義母や夫の権力の影で何とかやり過ごしてきました。
    が、ネットやSNSの普及で、即座に情報が拡散され、ライバル視していた天皇家との実力と人気、子供達の出来具合の格差が晒され、隠してきた過去の情報、天皇家を追い落とそうとする悪巧み、等、考察や話題に上がり、繰り返し語り継がれて、行く手に暗雲が…
    息子に皇統をと、無理矢理【ご優秀伝説】を大金浪費してまで作り上げてはみたものの、幼い頃からの報道規制もあり、国民からの支持は得られず、進路の変更を余儀なくされ、自分たちと同じ学生生活を演出しようにも、粗雑な創作報道写真に冷ややかな視線が…
    ここに来て、義母の年齢からの衰えからの権力低下、夫の健康問題と、足元のぐらつきが…
    かつて夫が記者会見で口にした【身の丈】、上手く行かない計画ならいっそ完全撤退して、夫の療養目的による皇族引退で心身共に休養して、人生やり直しをしてみては?

  • キコさん、父上、伯母様、弟君と皆さん経歴詐称なの?
    川辰の東大卒も怪しくな~い?
       ↓
    >経歴詐称疑惑

    2021-12-16  Ameba

    上記文言に「川辰の姉、佐藤豊子」をブラスして吹き込みご覧を、、

    >川辰の姉、佐藤豊子の経歴詐称。川辰自身も戸山高校も東大も詐称疑惑あ

    佐藤豊子。1932年東京永田町生まれ。自由学園初等部・白百合学園中等部・女子学院高等学校を経て1953年東京女子大学数理科卒。大学に数理科が発足したのは1961年、短大の数理科が3年制になったのは1954年。どちらも1953年卒の伯母様には関係ないね。どうしてこんな簡単にばれるような嘘を平気で書くんだろう…。

    >先日亡くなったカワタツこと川嶋辰彦氏も、経歴に疑惑がたくさんあります。
    高校も大学(東大)も、同級生が出てこないとか。

    大学教授(元祖K子さん婚約時は助教もしくは助手)も本当なのか?とか。
    クイズ番組に出ていた学習院大学で教えていた、篠沢教授の奥様が
    厩務員だったと口を滑らせたとか。

    教授って肩書は、大学で授業を受け持たなくても名乗れるんです。
    私の友人はキャリア官僚でしたが、派遣された先で作った名刺には
    plofessorとありました。
    勿論、自称ではなく、機関から与えられた正式な肩書きです。
    授業など一度もしたことは無いはずですが、仕事をする関係者に
    教授が多いからでしょうか。

    なので、与えようと思えば与えられる肩書き。
    そういえば、奥様の弟さんも教授を名乗っておられるとか。 

     (詳しくは本文で) 

  • キコさんの父上、弟君ともに、あまり良い噂がないような、、
      ↓
    >紀子さまご尊父、特捜部が家宅捜索の「パチンコ社長」と韓国2人旅

    2019年06月11日 ディリー新潮

    上記文言で検索を、、

    >昨秋以降、複数のメディアが紀子さまの実弟・川嶋舟(しゅう)氏と民間団体との関わりを報じている。そこには「皇室利用」を招きかねない懸念がつきまとうわけだが、実際に、秋篠宮家と宮内庁にとっての“大いなる懸念”が、長らく存在するというのだ。
     
    >「それは、紀子妃殿下のお父上である川嶋辰彦・学習院大名誉教授の交遊関係についてです」
     そう明かすのは、川嶋家の事情を知る人物である。
    「川嶋さんは2011年に大学を退任され、現在はご自身が立ち上げたNPO法人『草の根国際協力研修プログラム』の活動で、タイの山岳地帯を訪れるなどしています」
     というのだが、一方で、
    「退任前から今に至るまで、川嶋さんがきわめて親しくしている人物が新潟県にいます。実は、その親密さについて不安視する声が上がっているのです」(同)
     現在79歳になる川嶋氏が交遊を重ねてやまないその人物とは、上越市で遊技業「三井企画」を営む三井慶昭社長(75)である。

     (詳しくは本文で)

  • 確かにこのサムネのカワタツ氏は、近寄りがたい雰囲気、仙人のように浮世離れした、すごい風貌ですね。
    カワタツ氏に、気が狂わんばかりの悩みがあったから、あんな風貌をしていたのかは分かりません。笑顔が、好好爺にも見えます。完全に身分不相応なのに、娘をまんまと皇室に嫁がせて、一応、願いが叶った満足な人生なのではないかと思います。
    でも >ある時点から皇室を乗っ取る快感が、苦痛や悔悟の念へと変質し たのなら、少しは良心が残っていたということですね。
    きこさま…そして、みちこさまには、そういった後悔は無いのでしょうか。自分の人生に何の疑問も持たないなら、もう人の心を失っているということですかね?

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA