【皇室、徒然なるままに】第20話 昭和天皇と秋篠宮文仁に見る責任のとり方 前篇:昭和天皇とヴィルヘルムII   西村 泰一

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昭和16年12月8日、「真珠湾攻撃」により始まった太平洋戦争は、今から78年前の昭和20年8月15日にようやく終戦を迎えた。本日は終戦記念日。平和主義者でありながら戦争の責任を強く問われるという、激動の時代を生きられた昭和天皇の胸中に思いを馳せる1日でありたいと思う。

1945年9月27日、昭和天皇はやや手を震わせながら「私の命を差し出します」とマッカーサー元帥に告げたという(画像は『日テレnews』のスクリーンショット)
1945年9月27日、昭和天皇はやや手を震わせながら「私の命を差し出します」とマッカーサー元帥に告げたという(画像は『日テレnews』のスクリーンショット)

 

◆一貫して平和主義者だった昭和天皇と戦争責任

終戦から1ヶ月半後となる昭和20年9月27日、昭和天皇は港区赤坂にある駐日アメリカ大使館の大使公邸の玄関に停められた車から、厳しい表情で降り立った。

降伏文書の調印式、米軍の東京進駐、戦争犯罪人の逮捕を経て、天皇の退位や戦争責任についても喧しくなっていた中、連合国軍最高司令官であったマッカーサー元帥を極秘に訪問していたのだ。

昭和20年(1945年)9月27日、昭和天皇がマッカーサーを訪ねたことは、非公式の訪問でありながら、歴史的な会談として知られている。天皇はシルクハットに燕尾服という正装であった。

一方のマッカーサーは、陛下が命乞いに来たものとばかり思い込んでいたので、傲岸不遜にマドロスパイプを口に咥え、ソファーから立ち上がろうともしなかったと言われている。



 

そこで天皇陛下は口を開く。

「私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事で行ったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯ひとりの者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました。」

 

「日本国天皇は私です。戦争に関する一切の責任は私にあります。私の命においてすべてが行われた限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応じるだけの覚悟があります。」

 

この戦争が天皇の名において行われたことは疑いない。しかし、陛下が一貫して平和主義者であったことはマッカーサーもよく知っている。意外性とともに、大きな感動がマッカーサーを揺さぶった。天皇陛下は続ける。

「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく食べるに食なき姿において、まさに深慮に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」

 

65歳だったマッカーサーは、まるで一臣下のように44歳の陛下の前に立ち、直立不動の姿勢をとって、繰り返しこう呟く。

「天皇とはこのようなものでありましたか! 天皇とはこのようなものでありましたか!」

 

天皇陛下は涙を流しながら続ける。

「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがあるでしょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」

 

マッカーサーは言う。

「かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史でも前例のないことだと思う。」

 

「私は陛下に感謝申しあげたい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進んでいるのも、すべて陛下のおかげである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力添えをお願いしなければならないことは多い。どうか宜しくお願いします。」

 

天皇陛下は「恵んでほしいとは言いません。担保を用意してきました」と言うと、菊の御紋の袱紗包を開けられた。そこには皇室の37億円にも及ぶ全財産目録があったそうだ。

会見は当初15分の予定だったが、37分ほどに及んだ。マッカーサーの天皇に対する気持ちや態度はすっかり変わり、最大の好意の表れとして、終了後は昭和天皇を玄関まで見送ったという。

その後、アメリカ本国から大量の救援物資が何度も日本に運ばれた。

 

終戦直後、実は天皇陛下を最たる戦犯として絞首刑に処し、天皇制をなくそうという動きがあった。戦後の日本について、ソ連は共産主義に、アメリカは共和制の国として再生しようと考えていたのだが、マッカーサーはいずれにも反対した。

同年11月、アメリカ政府はマッカーサーに「天皇の戦争責任を調査するように」と要請したが、マッカーサーは自身の見解を1963年の『マッカーサー回顧録』でこう記している。

「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』――大きな感動が私をゆさぶった。」

 

「死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った。」

 

結論として、昭和天皇に戦争責任を追求するべき証拠は「一切ない」と回答し、マッカーサーは天皇を守り抜いた。



どんな会話が交わされたのか公式の記録は存在しないが、マッカーサーは日記を元に綴った回顧録で、その日の感動を明らかにした。また、通訳として同席したパワーズ少佐の、非常に貴重なインタビュー動画も存在する。

 

また戦後の食料事情については、次の動画が参考になると思う。

 

1987年8月、岸信介元首相が亡くなった翌日、正二位大勲位菊花賞を贈るため、中曽根首相が那須御用邸で昭和天皇に内奏なさっている。中曽根さんは著書『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年)で、次のように述べておられる。

天皇陛下の御前で、(岸氏の)功績調書を読み上げました。天皇陛下はやや時間をかけてお考えになられて、『そういうことであるならば承認する』とおっしゃいました。『そういうことであるならば』という表現が印象に残りました。陛下はそうした感情を刻むような表現をあえて取られたのかなと後で思いました。

天皇陛下がやや時間をかけて何をお考えになっていたかは、私には手に取るようにわかるのであるが、大文字の送り火も間近なので、それについては「言わぬが花、聞かぬが花」ということにして、私の心のうちに留め置くこととする。

 

◆ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世と戦争責任

国民の平和と幸せを第一に願った昭和天皇とは正反対の皇帝が、第一次大戦のきっかけを作った人物ともいわれるドイツの最後の皇帝・ヴィルヘルム2世(1859~1941)だ。

962年に所謂オットー1世の戴冠で成立した神聖ローマ帝国は、1806年にナポレオン戦争に敗れ、844年に及ぶ歴史に幕を下ろしている。これが第一帝国である。ナポレオン戦争後のウィーン会議において、35の領邦と4つの自由都市から構成されるドイツ連邦とすることになり、1815年6月のウィーン議定書でその態勢が確定している。

ウィーン体制のもとで、ヨーロッパ各国で民族主義(ナショナリズム)と自由主義の運動が活発になるのであるが、1860年代からドイツの統一を実際に主導したのが、プロイセンのビスマルクであり、その軍国主義的強硬策によって1866年の普墺戦争でオーストリアを破り、ドイツ連邦を解体して翌1867年に北ドイツ連邦を結成している。

ビスマルクはフランスのナポレオン3世を挑発して1870年に普仏戦争に持ち込み、圧倒的な勝利を得てアルザス・ロレーヌを獲得。1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ホーエンツォレルン家出身のプロイセン王・ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝とする即位式を挙行している。こうして第二帝国は成立した。余談であるが、ヒトラーは自分が権力を握ったドイツを第三帝国と称している。

 

さて本題に戻って、同年4月、ドイツ帝国憲法を制定し、プロイセン王(ホーエンツォレルン家)がドイツ皇帝の帝位を世襲し、プロイセンの首相がドイツ帝国宰相となる立憲君主政国家となっている。ヴィルヘルム1世は1888年3月9日に90歳で病没。その後を継いだのは息子のフリードリヒ3世であったが、1888年6月15日に56歳で病没し、「百日皇帝」と渾名された。

その後を受けたのが、百日皇帝の息子のヴィルヘルム2世で、1871年から1914年までの3代の皇帝による治世で、ドイツ帝国は繁栄を謳歌する。1888年29歳で即位したヴィルヘルム2世は、ビスマルク首相を辞任させ、親政によってドイツの膨張政策を主導。イギリス・フランス・ロシアとの対立を深め、1914年7月に第一次世界大戦を引き起こすこととなる。

第一次世界大戦の休戦に伴い、連合国側には世界戦争の責任はドイツにあるとの見方が強まった。また、ドイツ軍の中立国ベルギーに対する侵攻とルシタニア号事件のような軍事行動は、戦争犯罪に当たるという声も上がり、「その最終責任は皇帝ヴィルヘルム2世にある」とする国際世論も無視できなくなった。

しかしヴィルヘルム2世は、以下の迷言を残し、たくさんの荷物を大慌てで何両もの列車に詰め込み、オランダに亡命している。

「戦争は国民が勝手にやったことです。自分には何の責任もありません。したがって私の命だけは助けてほしい。」

 

1919年に行われたパリ講和会議の結果として、同年6月に連合国とドイツの間で締結された、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約。その第226条により、ヴィルヘルム2世は国際司法裁判所に召喚されることになったが、すでにヴィルヘルムは退位し、オランダに亡命していた。

オランダは「政治的亡命者を引き渡すことは人道上できない」として、ヴィルヘルムの身柄引き渡しを拒否。また当時は、戦争責任を判断する明確な国際法が存在しなかったことから、結局ヴィルヘルム裁判は実施されなかった。そして国際世論も、戦争責任の追及より賠償金の額や領土の獲得へと移っていった。

ウクライナ侵攻で苦戦が続くロシアのプーチン大統領であるが、「ノアの箱舟作戦」と非公式に呼ばれる亡命計画があることが知られている。敗戦した場合、南米ベネズエラのリゾート島への脱出が候補地として有力視されているとのこと。そこで余生を何不自由なく過ごすのであろう。やれやれ。



第20話の締めくくりの一曲に、英訳付きの『君が代』をどうぞ。難解な歌詞も、英語にすると意外とわかりやすいかもしれない。

 

※ 後篇となる第21話では、秋篠宮と呆れた無責任さで知られる日本の陸軍大佐、辻政信について論じてみたい。

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『日テレnews』昭和天皇とマッカーサー(上)

『YouTube』皇室ヒストリー ― 「私の命を差し出す」マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉・戦後会談の真相【皇室】

『YouTube』chiwassu3923 ― 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter

『YouTube』 HarryOneman ― 昭和天皇が語りかけた“もう一つの玉音放送”

『YouTube』123theJapan ― 君が代 Kimigayo – National Anthem of Japan