【皇室、徒然なるままに】第21話 昭和天皇と秋篠宮文仁に見る責任のとり方 後篇:秋篠宮と辻政信  西村 泰一

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「私には関係のないこと」と知らん顔の秋篠宮文仁殿下(画像は『YouTube』のスクリーンショット)
「私には関係のないこと」と知らん顔の秋篠宮文仁殿下。かごしま総文2023にて(画像は『YouTube』のスクリーンショット)

 

昭和16年12月8日に「真珠湾攻撃」から始まった太平洋戦争は、78年前の昭和20年8月15日にようやく終戦を迎えた。平和主義者でありながら戦争の責任を強く問われ、自らの命をアメリカのマッカーサー元帥に差し出しながら、何より日本国民への慈悲をと切願なさった昭和天皇。一方、同じ皇族であっても秋篠宮文仁殿下は…。

 

◆秋篠宮文仁と嵐山鵜飼観光文化振興協会

まず嵐山鵜飼観光文化振興協会について、『Wikipedia』を見ていただきたい。

嵐山鵜飼観光文化振興協会について詳しく解説されている(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)
嵐山鵜飼観光文化振興協会について詳しく解説されている(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)

 

この協会は解散し、すでに存在していないという。問題となっている桂川の渡月橋近くの鵜小屋がどのような状況なのか、それについては次の動画がお薦めである。

 

次にこの件について、京都府議会での二之湯しんじ議員の勇気ある発言、質疑を御覧いただこう。

 

それでは、この鵜小屋に関わるお金の問題を整理していきたい。

■ 嵐山通船は京都府から、この鵜小屋の撤去費用700万円くらいを請求されている。

 

■ この鵜小屋を建設するため、嵐山通船は1億円以上のお金を京都中央信用金庫から借りている。零細企業の嵐山通船にとっては、返済はおろか、利子の支払いすら大変な負担である。(※)

 

■「この鵜小屋なら2,000万円くらいで建つだろう」という声は多い。では残りの8,000万円ほどのお金は一体どこへ消えた?

 

■ 奥野卓司氏は、現在この件で刑事告発を受けている。

 

■ 嵐山通船元社長の湯川直樹氏は、大阪地裁で使途不明金999万円の返還を求められている。

 

これは、秋篠宮が37年に渡って総裁を務める山階鳥類研究所の、最たる側近と言われる元所長・奥野卓司氏が、湯川直樹嵐山通船前社長とともに秋篠宮の名前を利用し、裏金づくりに奔走し、会社を引っ掻き回した事実に基づく使途不明金返還裁判であった。

秋篠宮が遠回しにも関与した経緯があることで、大阪地裁も皇室に忖度してか、判決文では内容や経緯が伏せられるという異例な事態となった。ことの詳細にはまだ不明な点もあるが、「秋篠宮の名のもとに起きた事件」という事実を疑う人はいないであろう。

 

昭和天皇は一貫して平和主義者であった。にもかかわらず、あの戦争が自分の名によってなされたというその1点のみを理由に、全責任をご自分が引き受けると仰って、マッカーサーを感動させた。

一方の秋篠宮は、「自分には関係ない」の一点張りである。寄付金ジャンプは、ポンコツ息子の筑附忖度入学なんかにではなく、嵐山通船を救うことに対して発揮していただきたいと思うのは、私だけであろうか。

 

昭和天皇の精神を、忠実に受け継いておられる今上天皇に国民が敬意をいだき、その精神をうちに秘められた愛子様に皇位をついでいただきたいという思いが巷間に満ち溢れるのは、けだし理の赴くところなのである。

 

◆責任押し付け・責任のがれといえば辻政信/ノモンハン事件

日本は満州事変をテコにして満州全域を支配下に収め、1933年に満州国を樹立した。それによってソ連と直接に国境を接することとなった。事変後、日本軍は中国全土に戦線を拡大、日中戦争を優位に戦いっていったが、この段階でも、最大の仮想敵国はソ連であると捉えていた。

そのため満州北部の防備に力を注ぎ、またソ連軍の動向とその戦力に強い関心を持った。このような緊張状態の中で満州国とソ連の国境線には不明確なところが多く、双方の主張に食い違いがあり、しばしば紛争が生じていた。

1938年7月29日には満州南東部の豆満江河口付近で、日本軍とソ連軍の軍事衝突である張鼓峰事件が起こっている。このときソ連兵が国境を越えて進出しているとして、中央の参謀本部の指令に従い、「威力偵察」と称して朝鮮駐留の日本軍が出動したが、戦車、飛行機などを動員したソ連軍に撃退された。

この事件から1年にも満たない後の1939年5月に起こったのが、ノモンハン事件であった。史料が少ないことで、戦後長きにわたり「日本軍は大敗し、北進を断念」と認識されていたこの事件については、ソ連末期の情報公開やソ連解体後の新資料の発見などによって、実態が少しずつ明らかになってきた。

それによるとソ連側の被害も相当なものがあり、日本軍を圧倒したとは言えなかったことがわかってきている。ただ、その事態を日本軍もつかめず、日本軍の損害も大きかったので、休戦交渉はソ連有利に進められた。

 

辻 政信(つじ まさのぶ)は1902年(明治35年)生まれの陸軍大佐で、1937年に関東軍作戦参謀になるとノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを指導した。そのうちノモンハン事件では、第23師団捜索隊・長井置栄一中佐や、歩兵第七十二連隊長・酒井美喜雄大佐など、捕虜交換によって戻ってきた将校たちに自殺を強要している。

当時45歳であった長井置栄一中佐の場合を少し詳しく見てみようか。

ソ連軍の総攻撃が始まった1939年8月20日、彼が隊長を務めていた第23師団捜索隊は、激戦地の一つだった「フイ高地」で包囲された。「頑強な抵抗」と評された戦いぶりを見せたが、水や食糧、弾薬の補給、通信すら絶たれる中、4日後に撤退を決断。フイ高地にいた23師団捜索隊759人中、269人が脱出に成功した。ところが辻は、これを無断撤退、軍律違反だと批判。彼らに自決を強要した。「私達が負けたのはあなた方のせい」と、すべてがこの調子であったという。

ノモンハン事件が敗戦であるなら、その責任は「事実上の関東軍司令官」とまで言われた辻政信が負うべきものであろうに、彼に下された処分は「第11軍(漢口)司令部付に左遷」にとどまった。さらに1941年7月10日には、晴れて参謀本部作戦課の兵站班長に補任されている。独善的作戦遂行、越権行為や部下への責任押し付け、そして責任のがれ。これらが辻政信という男を特徴づけるのである。

秋篠宮殿下に申し上げたい。辻政信様が地獄でお待ちかねです。似た者同士で、ゆっくり語り合いたい御意向のようです、と。

 

【皇室、徒然なるままに】第20話 昭和天皇と秋篠宮文仁に見る責任のとり方 前篇:昭和天皇とヴィルヘルムII

 

ところで『君が代』の歌詞の二番、三番、四番をご存じであろうか。第21話の締めくくりの一曲に、そちらをご紹介してみたい。

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

 

※ 当初、京都信用金庫としておりましたが、「京都中央信用金庫ではないか」とのコメントを頂戴し、訂正いたしました。ご指摘、大変ありがとうございました。

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『YouTube』ogata ― 【切り抜き】2023/6/28(#京都府議会)令和5年6月定例会 本会議

『Wikipedia』嵐山鵜飼観光文化振興協会

『YouTube』MBS NEWS ― 日本有数の観光名所に『2年間放置の謎の小屋』計画途中で法人解散”宙ぶらりん”…元理事を直撃「もうなんとも言えない」【徹底取材憤マン】(2022年9月12日)

『ameblo』4コマ漫画「アメリカは今日もアレだった」 ― 【拡散希望】A宮側近奥野卓司が刑事告発されました。

『Wikipedia』辻政信

『世界史の窓』張鼓峰事件

『YouTube』祝!紀元(建国)二千六百八十年❗️日本国 (大日本帝国)国歌 君が代 一番、二番、三番、四番

『エトセトラ・ジャパン』【皇室、徒然なるままに】第20話 昭和天皇と秋篠宮文仁に見る責任のとり方 前篇:昭和天皇とヴィルヘルムII