筑波大学の話題の元学長・福田信之氏を論じる   第一部:エトセトラ・ジャパン/第二部:西村泰一

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福田信之氏は、旧統一教会の「国際合同結婚式を支持する学者・文化人の会」の中心的ポジションに(画像は『文春オンライン』のスクリーンショット)
「筑波大学を創設した」とも言われる福田信之氏は、旧統一教会の「国際合同結婚式を支持する学者・文化人の会」の中心的ポジションにいた(画像は『文春オンライン』のスクリーンショット)

先月中旬、こちらで『世も末の日本…岸田首相はまるで韓鶴子氏の手下 そして悠仁さまは旧統一教会の影響がかなり残る筑波大へ…!?』という記事を執筆した。実はその際、最もじっくりと読むことになったのは、Wikipediaの「福田信之」というページだった。



東京教育大学の筑波移転反対運動では、物理学者でありながら八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍で反対派を封じ込めた手腕を買われ、いきなり筑波大学の副学長に抜擢された福田氏。かなり旧統一教会の教義に傾倒していた同氏の学長就任で、なんと筑波大の主要ポストは同教会系の人脈で固められたそうだ。

国立大学にもかかわらず、「筑波大の創設者は福田氏だ」などと言う人は多い。同氏の強さを支えていたものとは…? 今回の記事、第一部はエトセトラジャパンの朝比奈が担当し、第二部は理学博士の西村 泰一先生にご執筆をお願いしてみた。

 

【第一部:警視庁の機関誌から読み取れるお人柄】

 

福田信之学長が旧統一教会に傾倒していたことは、筑波大学の学生にも大きく影響か(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)
福田信之学長が旧統一教会に傾倒していたことは、筑波大学の学生にも大きく影響か(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)

 

◆韓国の宗教に傾倒しているのに国立大学の学長に

福田氏は1970年代後半から、旧統一教会系の学者・文化人が集まる「世界平和教授アカデミー」のナショナル・ゴール(国家目標)研究プロジェクトの代表になり、「日韓トンネル研究会」の顧問も務めていた。また、『文鮮明師と金日成主席 ― 開かれた南北統一の道』なる本を出版し、「国際合同結婚式を支持する学者・文化人の会」の代表世話人を務めていた。

ここで「筑波大学、あるいは筑波研究学園都市構想は、まさか旧統一教会のために作られたものではあるまいな」という疑問がわいてくる。福田氏の学長就任で、学内がそのカラーに染まっていくことは大方予想がついたであろうに、学生以外の誰もがそれを許していたように思えるからだ。

 

◆学生の7割超が安倍内閣を支持

2017年、東京大学が新入生にとった「支持政党に関するアンケート」で、自民党支持者は36%しかいなかった。ところが同年12月の『筑波大学新聞第339号』は「学生にアンケートを行った結果、71%が安倍内閣を支持している」との記事をトップに持ってきていた。

筑波大学の驚くべき事実。2017年のアンケートで、なんと学生の7割が安倍内閣を支持していた(画像は『筑波大学新聞』のスクリーンショット)
筑波大学の驚くべき事実。2017年のアンケートで、なんと学生の7割が安倍内閣を支持していた(画像は『筑波大学新聞』のスクリーンショット)

 

福田氏の学長就任で左寄りの教員が排除され、大学が発行する新聞が「自民党支持」を奨励するなら、当然こうした結果になるだろう。

 

◆警視庁の機関誌に

そして気になったのはWikipediaの「来歴」の欄。副学長であった1979年、福田氏が警視庁の機関紙『自警』に寄せた論稿が、国会で問題視されたという。

福田信之氏は警視庁の機関紙にどのような論稿を寄せたのか(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)
福田信之氏は警視庁の機関紙にどのような論稿を寄せたのか(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)

 

問題の『自警』誌は、幸いにも国立国会図書館のデータに残っていた。福田氏が筑波大の学長に昇格する半年ほど前の論稿は、全4ページで構成され、タイトルは『エネルギー問題と原子力』。かつては反核運動もしていた同氏だが、統一教会と関係を持ってからは核武装論者に。エネルギー政策の面でも原発推進派であった。

福田氏が警察の機関紙に寄せた論稿「エネルギー問題と原子力」1 ~2ページ
福田氏が警察の機関誌『自警』に寄せた論稿「エネルギー問題と原子力」1 ~2ページ

 

「石油需給関係の不安定さ」という小見出しが目立つ2ページ目では、将来の必要エネルギー量が非常に大きなものになることから、そのエネルギーの研究・開発のために、「今後10年間に10兆円程度の投資が必要である」と訴えていた。

同じページの後半には「石油メジャーの日本への割当量は月毎に厳しくなり、イランは日本との契約更新を脅迫材料にしてバレル40ドルのスポット買いを迫る」とあった。「脅迫材料」とは、果たして警視庁の機関紙にふさわしい言葉なのだろうか。

 

続く3ページ目には、「工業先進国の泣き所はまさにエネルギーであり、その運命が石油以外にはなにもない中東の発展途上諸国の手に握られたのである。金も力もあまり通じない相手でありイスラム教という特別な宗教の支配する諸国である」と書かれていた。

福田氏が警察の機関紙に寄せた論稿「エネルギー問題と原子力」3~4 ページ目
福田氏が警察の『自警』に寄せた論稿「エネルギー問題と原子力」3~4 ページ目

 

そして4ページ目で福田氏は、中東産油国の手から工業先進国の運命を取り戻すためにも、確実な手段・技術として「原子力が本命」だと強調している。「昭和15年以来40年間の研究開発の積み重ねがあるため、安全性、経済性にも問題がない。恐れられている放射能についても、100年近い研究実績があり、その制御は完全に近い」などと説明していた。

ご存じの通り、その後の1986年4月のチェルノブイリ原発事故と2011年3月の東京電力福島第一原発事故は、放射性物質の放出量が、いずれも国際原子力事象評価尺度(INES)の「最も深刻」を意味するレベル7と評価されている。

さらに4ページの中段で、福田氏は「原子力を中止せよという主張は、国民に貧困を強要するどころか、死の宣告を下すに等しい」と主張。人々が反原子力の運動を起こすことについては、「目に見えない放射能に薄気味悪く思う単純な感情論もある」「(反対の目的は)工業先進国の産業を崩壊させて経済的社会的混乱をひき起こし、共産革命を達成させることにあるのではないだろうか」などと記している。

いささか攻撃性のある強い言葉を好んで使い、一方で原発の話題になると安全性ばかりを強調していた福田氏。国立大学の学長も務める物理学者なら、自身の発言がどれほどの影響力をもつか、その重みをしっかりと自覚し、原発が事故を起こしたときの危険なシナリオ、真実を語るべきだったと思うが…。

 

◆ “洗脳” はいつまで続く?

旧統一教会の教義、文鮮明の思想に傾倒している物理学者が、学長として力をおおいにふるった筑波大学。インターネットでどのような事実をも把握・理解できる今どきの学生たちなら「学長の信教、反共の理念、個人的な活動、支持政党などに影響を受けることは、殆どない」と言うのだろう。

だがネットのない時代は、大学が発行する新聞や看板、キャンパスの雰囲気など、目に飛び込んでくる情報に学生たちの物事の考え方は大きな影響を受ける。福田学長は「原理研究会」をサークルとして認め、キャンパスでの世界基督教神霊統一教会の布教活動や、原理研究会の会員募集活動を認可していた。筑波大学における自民党の支持率が驚異的な高さなのも、当然の結果だったのだろう。

安倍晋三元首相の銃殺事件後、さまざまな報道を経た今、筑波大学のキャンパスで再び同じアンケートを取ったとして、自民党の支持率はなおも7割超を記録するのだろうか。もしもそうなら、この大学における “洗脳度” はかなりのものと考えるべきなのであろう。

秋篠宮家の長男・悠仁さまについて「東大は大学院で目指し、最終学歴にすればよい。大学は筑波大学へ」となる可能性はゼロではない。改めて様々なことに注目していきたいものだ。

(朝比奈ゆかり/エトセトラ)

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【第二部:素顔の筑波大学】

 

1980年、衆議院では筑波大学に関しての質問主意書が提出された(画像は『衆議院』のスクリーンショット)
1980年、衆議院では筑波大学に関しての質問主意書が提出された(画像は『衆議院』のスクリーンショット)

◆公職選挙法違反と学園祭

1978年茨城県県会議員選挙で、多くの筑波大生が組織的に買収され(一人あたり数千円)、137名の書類送検者を出すに至った事件は、開学間もない筑波大学を有名にしている。

さらに世間を驚かせたのは、筑波大学がこれらの学生に対して、何ら処分を下さなかったことである。これと昨年入学式で、いささかオフザケが過ぎた筑波大学附属高校生に無期停学の処分が下された案件を比較されたい。



その背後にあからさまな政治的思惑を見るのは、私だけではなかったようで、1980年、日本社会党の国会議員であった竹内猛氏が衆議院で次のような質問をなさっている。

筑波大学は、ひらかれた大学として茨城県の筑波研究学園都市の中心的な存在として昭和四十八年に東京から移転した。この筑波大学において、昭和五十三年十二月の県議会議員の選挙に百三十七名の学生が書類送検された事件が生じ、明らかに公選法違反であるにもかかわらず、教育的処置として口頭厳重注意ですませ、学則による処分には及ばなかつた。これに対して、学園の自治を求めて学園祭を開くという学生の計画には今日まで再三にわたつて抑え付けてきた。

 

私は、五十四年二月二十八日衆議院予算委員会第二分科会にて、筑波大学の学生規則が開校の精神に反し、更に日本国憲法第十一条の基本的人権、第十四条の法のもとにおける平等、第十九条の思想及び良心の自由、第二十条の信教の自由、第二十一条の集会・結社・表現の自由、第二十三条の学問の自由の保障の各条項に反し、まさに大学の理事者に管理され拘束された管理大学であると内藤文部大臣に質問した。すなわち管理者である副学長や教授は堂々とある宗教を引き込み、宣伝、激励し、また、ある集会では政治的発言をしている。その管理者が学生を抑え付けるのはどうか。これに対し大臣は「教師が生徒たちに禁止するなら、自分がちやんとしなければいかぬ。自分は政治活動をし、あるいは宗教活動をしていて、生徒はおまえはしてはいかぬというのは、私はいかぬと思う。やはり教師みずからが生徒の模範でなければいかぬと思うので、そういう教師であつてほしいと思いますし、また私も筑波大学へ行つて御指摘の点はよく研究さしていただきたいと思います。」と答弁した。また、佐野大学局長は筑波大学のような学校規則をもつている他の大学がありますかとの問いに対し、「筑波大学が定めている学生の学内における団体活動なり集会なり掲示等について加えている制限というのは、一般の大学において行われている制限よりも厳しいものがございます。」と答えている。

 

このような経過があつたにもかかわらず、何ら検討もされず改正もされてないまま、五十四年の学園祭をめぐり大きな問題が生じている。

 

学生の自主的な文化活動である学園祭でいくつかの企画が建学の理念にそわない等の理由で大学当局によつて一方的に禁止された。(五十三年の学園祭においても家永三郎氏を講師に含めた講演会と三里塚・辺田部落の映画上映が禁止されている。)学園祭実行委員会を中心とする学生は自主管理、自主運営を具体化した八項目の要求(企画内容審査の撤廃等)を提出したが無視され、あくまで大学の運営方針に従わせ、企画内容審査を求められた。

 

昨年十月二十三日、学生は大学の態度に抗議し、学生主体の学園祭実現の全学生確認集会を行おうとしたが、大学側は不許可にしたため、やむなく無許可のまま集会を行わざるを得なかつた。そして学園祭の一週間前になつても当日の教室等の使用さえ認められず、できるかどうかさえわからない状況になつた。

 

昨年十月三十日、こうした状況を打開し、教室使用の確約を求めるため学長との直接的交渉を求め、本部棟に出向いた学生に対し、大学側は本部棟をロックアウトし、事務職員がピケットをはり暴力をふるつてまで学生の要求を拒み続けたため、学生の座り込み抗議行動を引き起こし、更に警察官の出動を要請し、学生を排除しようとした。
学生をしてこのような行動に追いやつた原因は大学側にあり、その責任が問われるゆえんである。

 

そして更に大学側は学園祭後、こうした背景を全く無視して学園祭にかかわつた中心的学生七十数名に対し、学則、学生規則違反として処分のための調査を行い、昨年十一月二十日には定期試験をも防害してまで強制的呼び出し調査が行われた。学生は調査に抗議し、釈明を求めたが再び拒否された。しかも大学側はこの抗議を「暴力事件」としてデッチ上げ、処分を行おうとしており、また、警察の介入を要請し刑事事件にまでしようとしている。

 

昨年十二月十四日には第二学群、第三学群の学生の処分が発議され(第一学群は教員会議の反対を押し切つて副学長が処分を発議している。)、二月中には学生の処分が発表される予定だと言われている。以上の経過により次の事項について質問をする。

 

一 昨年二月二十八日以降今日まで、国会における私の質問に対して文部省は、どのような誠意をもつて筑波大学の学生規則を検討したかについて報告されたい。

 

二 五十四年の紛争の根源は、昨年二月二十八日に質問した憲法に違反していると思われる学生規則にある。これは表現の自由を求める学生の声を無視し続けた大学の行為を一切不問にしたままの不当なものである。一月十六日に「厳重注意」という処置で済んだはずの体育専門学群の二名の学生に対し、その後更に不当に重い「三ヵ月停学」の処分が発表されたが、この処分は教育の名の下に大学執行部の都合に
よつて学生をあたかも物のごとく処分しようとするもので、著しく不当な処置であると思うがどうか。

 

三 また、たとえ大学側に教育上の処分権があるにしても、一昨年の県議選買収事件では、明確な法律違反であるにかかわらず教育的処置と称し、学則による学生処分がなされなかつたのに比し、今回の一連の処置は著しく公平の原則を欠く処分権の乱用と言わざるを得ないがどうか。

 

四 筑波大学の教育方針をさまざまの方面から問い直す時と考えるが、再検討する意思があるか否か表明されたい。 (原文ママ)

 

これに対する国会での答弁は次のごとくである。

一について
大学における学生の教育指導の方針及びこれに基づく諸種の規則は、それぞれの大学が自主的判断に基づき定めるべきものであり、筑波大学においても必要に応じて自らの判断のもとに検討されるものと考えている。

 

二について
質問に係る事案は、筑波大学体育専門学群の二名の学生がいずれも同大学の学生に対して暴行を加え傷害を負わせたものであるが、同大学では事件発生後直ちに体育専門学群長が両名に対し厳重な注意を与えるとともに厚生補導審議会において調査、検討した上、昭和五十五年一月十六日の同審議会の結論に基づき同月十七日に学長が懲戒処分に付したものと承知しており、大学における措置が適切を欠くとは考えていない。

 

三について
筑波大学では、それぞれの事案につき、教育上の見地から所要の措置を講じたものであると承知しており、お尋ねのような処分権の濫用にわたることはないと考えている。

 

四について
筑波大学においては、建学の精神に立脚し教育が行われ、その成果は逐次あがりつつあると承知しており、大学の一層の努力を期待している。

 

この集団買収事件のあらましを見てみよう。事件があった当時、つくば市はまだ存在していなかった。当時の筑波大学の所在地は「茨城県新治郡桜村」であった。

新治郡桜村の村長の息子・藤沢順一氏は県議に立候補し、運動員を使って筑波大生の買収に大々的に乗り出した。応じた学生は運動員と同行して不在者投票を行い、謝礼は3,000円程。また、買収斡旋にも協力してくれた学生には一人につき500円程の謝礼が支払われた。

買収の誘いを受けた学生は200名を超えたとも言われ、結局は体育専門学群を中心に137名の学生が書類送検されている。これはあくまで噂であるが、「大学の幹部職員もこの買収事件に関与していた」という話も出回っていた。


◆反 共

第3代 筑波大学学長を務めた福田信之さんは、1986年2月に編者として『教育改革・私の提言』という本を泰流社から出版している。福田さん自身も『21世紀の大学』という論考を寄せている。論考自体は13ページくらいの短いものであるが、そこにわざわざ「精神的退廃と共産主義の浸透」という些か場違いと思われる題目を設定し、次のように述べている。

 以上に加えて、さらにもう一つ、物質至上主義に起因する精神的退廃と共産主義の浸透による学園や社会の混乱という重大な問題があります。現代の物質的豊かさは道徳的・精神的荒廃をもたらし、大学においては、教官・学生ともに学問に熱を入れて励むという姿勢が少なくなっています。このことは、先進国だけの問題ではないと思います。

 

しかも、それ以上に重大なことは、物質至上主義の間隙を縫って、共産主義思想ー必ずしも共産主義と断定できない場合もありますがーやそれに同調する安易な思想が大学内にはびこっているという事実です。このことは、先進国・発展途上国に共通の現象であると思います。

 

共産主義が世界と人類の課題に対して解決能力を有していないことは、ソ連誕生以来の七十年近くの経験で既に証明済みのはずであるにもかかわらず、今もって学生、教官の中に共産主義思想はかなり浸透しており、これが大学の混乱に輪をかけています。

 

なぜ、共産主義思想が今なお浸透しているのでしょうか。私は、それには二つの理由があると思います。一つは科学技術文明の発展が精神面よりも物質面を重視する物質至上主義をもたらしたことです。物質至上主義の下では、いくら富を手にしてもなお足りないという不満が起こります。その不満を煽ることによって、容易に体制批判へと向けることが可能になるからです。持てる者への批判という形での煽動は発展途上国では一層深刻かもしれません。

 

今一つの理由は、自由主義諸国を分断し、社会の混乱を助長させようとする国際共産主義運動の影響によるものであることは間違いありません。国際共産主義運動とは、世界はいずれ共産化するはずであり、またそうしなければならないとする思想と運動であり、これが各国において重大な社会問題になっています。

 

今日における国際共産主義運動の基本戦略は、自由主義国家内および国家間の分断工作です。たとえば、自由主義国家間の対立要因を探し出し、それを拡大して、お互いを芬陀院させる。また、わが国においては防衛力の増強を憲法違反であるとか、生活を犠牲にするものであるとかいって反対するのも、国論を分裂させて国際共産主義運動に有利な状況を作り出すための戦略であることは明白です。

 

このような戦略が学内に持ち込まれると、学内での混乱と対立が拡大され、正常な研究・教育活動が妨げられるようになります。また、自由主義的な思想に立つ教授・学生と共産主義に同調する教授団・学生集団との間には共通の土俵がないため対話は不可能です。このような問題でも悩んでいるのが、現在の大学の実情です。

 

これだけでは、まだ書き足らなかったようで、後の題目「国際大学としての実績」のなかでも次のように付け加えている。

 ところで、筑波大学では法律に基づいてキャンパス内での政治活動・宗教活動は一切認めていません。他の大学ではそういう規定はあっても実際は無秩序状態というのが実情です。共産党の看板が至るところに立っていたり、平気で宣伝ビラが貼られていたりします。筑波大学では個人個人の信条は自由ですが、キャンパス内において特定の政治活動や宗教活動は一切許していませんし、できません。そのため、共産主義の問題も他の大学に比べると比較にならないくらい小さな問題でしかないと思っています。

 

実際、先程述べたように、大学の理念や方針について大方の先生方の共鳴と協力が得られていますから、筑波大学に関する限り、現在も未来においても共産主義の浸透はそう大きくならないだろうと確信しています。大学の研究・教育・社会的活動が正常に進められてアカデミックな学問が栄えている限り、また、教官と学生とが接触を密にして人生、人間の問題、国際情勢について語り合い、教官の採用方針をよく考えていけば、イデオロギー問題はそう大きくならないだろうと私は考えています。

 

学長がどのような政治的御意見をお持ちであろうと一向に構わないのであるが、福田さんの場合は自身の政治的意見を大学の運営等に持ち込むのである。これをやられると、大学自体が変に政治化してしまい、大学にとって良いことは何もない。

そのあたりについて少し縷説してみよう。

 

《小規模な筑波大の社会学類》

筑波大学は最初、ナンバー学群といわれる制度を採用していた。カッコ内の数字は入学定員で、その学類に何名の教員が配置されるかは学生数に比例する。

第一学群:人文学類(120人)、社会学類(80人)、自然学類(200人)

第二学群:比較文化学類(80人)、人間学類(120人)、生物学類(80人)、農林学類(120人)

第三学類:社会工学類(120人)、情報学類(80人)及び基礎工学類(160人)

その他:医学専門学群(100名)、体育学群(240名)、芸術学群(70名)

 

人文学類というのは文学部、自然学類というのは生物のない理学部ぐらいに考えてもらっていいかと思われる。そして法学、政治学、経済学そして社会学は、社会学類の内部にある4つの専攻に位置づけられ、他大学の法学部・経済学部とは比較にならないほど小規模である。

この定員だと、学類全体でも教員数は約40名。各専攻の教員数は10名くらいにすぎず、これでは最低水準のカリキュラムを組むこともできない。

法学に刑事訴訟法や労働法、経済に経済史や国際経済論。こういった科目を担当する教員が完全に欠落しているのである。これは「従前の社会科学は殆ど何の役にもたたなかった」という福田さんの荒唐無稽な信念に由来する。

福田さんの頭のなかに、政治学の丸山真男博士経済史の大塚久雄博士、そして法社会学の川島武宜博士あたりはまったく見つからないのである。

 

《2代目を狙うも相手が強すぎた》

2000年にNHKで放送された『葵 徳川三代』をご覧になられた方は多いだろう。初代将軍徳川家康を津川雅彦が、二代目徳川秀忠を西田敏行が、三代目徳川家光を尾上辰之助が熱演していた。

翻って、筑波大学学長は初代が三輪 知雄(みわ ともお、1973.10.1~1976.7.31)さん、二代目が宮島 龍興(みやじま たつおき、1976.8.1~1980.3.31)さん、三代目が福田 信之(ふくだ のぶゆき、1980.4.1~1986.3.31)さんである。

他のどの学長よりも強いパワーを誇ったとされる第3代・福田信之学長(画像は『筑波大学』HPのスクリーンショット)
筑波大の初代から3代 までの学長(画像は『筑波大学』HPのスクリーンショット)

福田さんは、三輪学長、宮島学長いずれの下でも副学長をしていたことから、この3代の頃を「筑波大学の福田時代」と言っても強ち的外れではないだろう。

初代学長の三輪さんは、1962年7月18日から1968年7月17日まで、ノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎学長のあとを受ける形で、東京教育大学の学長をなさっていた。

任期満了を控えた1976年7月には、第1回学長選挙が実施された。副学長であった福田さんは、自分が2代目の学長になるつもりであったようだが、対抗馬は同じく副学長の榊原仟(さかきばら しげる)さんだった。循環器専門の榊原記念病院を開設した榊原さんは、心臓外科の基礎づくりと発展に貢献した人物として日本心臓血管外科学会の会長を務め、著作に『医の心』がある。

とても勝ち目がないと判断した福田さんは、中間派の支持をある程度期待できる宮島さんを担ぐことにした。ご専門は福田さんと同じ素粒子物理学。1970年3月3日 から1974年3月2日まで東京教育大学の学長をなさっていたこともあり、その宮島さんは榊原を制し、2代目学長に選出された。

 

《私が筑波大学へ来た頃》

私が京都大学附置数理解析研究所から筑波大学に赴任したのは、福田さんが65歳で大学を去った直後の1986年4月1日付けであった。

私が筑波大学へ来たとき、皆さんは福田さんがいなくなったことをとにかく喜んでいて、表情も明るかったと思う。ただし、福田さんが「自分と政治的意見が同じ」という理由で筑波大学に引き込んだ教員が何人もおられた。残念ながら、その方々について良い話を聞いたことはあまりない。

 

【西村先生とのインタビュー記事/2023年4月】
「秋篠宮さまの英国王戴冠式出席に反対します」 理学博士が研究者向けSNSに論稿を執筆《前編》

「秋篠宮さまの英国王戴冠式出席に反対します」 理学博士が研究者向けSNSに論稿を執筆《後編》

 

《東京教育大学の教員は希望した全員が筑波大学へ?》

筑波大学は、「昌平黌(のちの湯島聖堂)移転跡地に1872年に設立された師範学校にまで連なる」という考えに基づき、今年で創基151年ということにして、盛大に祝うつもりのようである。

だが、それを言うためには筑波大学の前身が東京教育大学であったということ、さらに、筑波大学への移行が連続的であったことが、先ず以て言えなければならないだろう。

特に、東京教育大学の希望する教員はすべて筑波大学へ移ることができたのかが試金石になるが、筑波大学はこれを全否定するようなことをしたのである。

それについて詳細に見てみよう。東京教育大学は1973年11月から12月にかけ、教員に筑波大学への移行を希望するかどうかの意向調査をおこなっている。その調査結果は公表されなかったが、「筑波大学に移る意思なし」と答えた教員は文学部だけでも30名(保留17名)、全学で数十名に上ったと推定されている。

では、この意向調査で筑波大学への移行を希望した教員が、全員無条件で受け入れられたのかと言えば、そうではなかった。筑波大学は「この意向調査は東京教育大学が行ったもので、筑波大学は関知していない」「教員の採用は大学の自治に属すること。東京教育大学の教員であっても、筑波大学に移る際は、新規採用と同じ手続きによって審査する」などと主張した。

つまり、筑波大学は東京教育大学となんの関係もありませんと、筑波大学自身が公言されているのである。こんなことを言っておいて、「今年は創基151年です」などと、一体どの口が言っているのか? これでは世間の物笑いの種になること、必定であろう。

こんなことをしているから、「筑波大学は、所詮、一流大学になりたがっている三流大学」などと陰口を叩かれるのである。

 

《差別的な採用方式=推薦書》

もう少し話を続けよう。こういう差別的な採用方式を進めようとして考え出されたのが、推薦書方式である。一般に公務員はその採用にあたって誓約書に署名捺印することになっているが、筑波大学はこの一般の誓約書に加え、筑波大学の学長あてに「筑波大学の建学精神を尊重する」という特別の推薦書の提出を求めたのである。

推薦書を書いてくれるのは既に筑波大学の教員で、その文面は次の通り。

「 …は筑波大学の建学精神に賛同する者であることを保証して推薦します。なお同人が本学職員となって万一これに反する行動があったときは、小職が責任をもって措置します。」

 

「建学の精神」とはなんぞやという明確な定義もなく、その解釈は権力を持つ人の恣意的な解釈に委ねられることになる。しかも誓約書ではなく推薦書となっているところが味噌で、本人がいくら建学の精神を尊重するといっても、推薦書を書いてくれる教員が見つからない場合、採用はあきらめるより他ない。

こうして筑波大学には、福田さんたちの主張に賛同する方達だけが集まってきた。筑波大学がそうした採用方式をとっているという情報を入手した東京教育大学の教職員組合は、日教組大学部を通じて文部省の見解を正した。

流石にこの推薦書には驚いたらしく、「この推薦書を採用の条件とすることは違法の疑いがある」とした文部省。一応、筑波大学の顔も立てて「採用を決定した者について、これを提出させることは差し支えない」とする答弁をおこなったが、大慌てでこの方式を中止するよう、内々に筑波大学に迫ったとも言われている。

そのためであろうか、筑波大学は、この方式を半年ほどで中止している。

 

《韓国の対日工作機関・統一教会》

福田信之さんと言えば、1960年代に初代統一教会長(1964年-1991年)久保木修己氏と知り合い、刎頸の契り(ふんけいのちぎり)を結んだことで有名である。

例の安倍晋三元首相暗殺以来、すっかり糾弾の的となってしまった統一教会であるが、糾弾される根本的な理由は、それが如何わしい宗教教団だからではない。如何わしい宗教教団なんか他にいくらでもある。

文鮮明が強い宗教的体験をしたのは1945年の頃であり、如何わしい宗教的活動もそれなりに経て、1954年にいわゆる統一教会を立ち上げている。それが大きく変質したのは1959年、文鮮明が韓国の独裁者朴正熙の庇護を受けるようになってから。しばらくすると、「統一教会はKCIA(大韓民国中央情報部)の指示で動く対米対日工作機関だ」とも報じられた。

旧統一教会はまるで「KCIA日本支部」のような役割を果たしていた、と報じられる(画像は『日刊ゲンダイ』のスクリーンショット)
旧統一教会はまるで「KCIA日本支部」のような役割を果たしていた、と報じられる(画像は『日刊ゲンダイ』のスクリーンショット)

 

統一教会が対日対米の工作機関に過ぎないことを完膚なきまでに晒したのは、1977年11月29日、米下院に提出された「フレイザー報告書」であった。447ページにも及ぶその報告書に関する動画も存在する。

 

保守派の優れた論客、櫻井よし子さんあたりは、中国、ロシア、北朝鮮といったところの対日工作については非常に的を得た言論を展開されるのであるが、韓国の対日工作機関・統一教会となると、とにかく歯切れが悪く脇が甘い。それは岸信介や笹川良一あたりにも言えることである。

今回の締めくくりの1曲はこちら、SIAの『Unstoppable』をどうぞ。

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)



画像および参考:
『Wikipedia』福田信之

『文春オンライン』「私たちは“国際合同結婚式”を応援します」産経新聞になぜ「統一教会」を称える広告が載ったのか?〈1992年の謎〉

『Webcat Plus』警視庁警務部教養課 ― 自警 61(11)

『エトセトラ・ジャパン』世も末の日本… 岸田首相はまるで韓鶴子氏の手下 そして悠仁さまは旧統一教会の影響がかなり残る筑波大へ…!?

『筑波大学』大学案内・歴代学長

『衆議院』筑波大学の学則と学生の自治に関する質問主意書 昭和五十五年二月七日提出

『衆議院』衆議院議員竹内猛君提出筑波大学の学則と学生の自治に関する質問に対する答弁書 昭和五十五年二月十五日受領

『日刊ゲンダイ』60年代後半に日本での足場を固めた旧統一教会は“KCIA日本支部”のような役割を果たしていた

『聯合ニュース』<外交文書公開>朴正熙政権と統一教会めぐる疑惑問題

『Newsweek』「統一教会」日米での政治工作の歴史…背景には韓国「情報機関」による庇護も

『YouTube』TBS NEWS DIG ― 【統一教会の闇】44年前に暴かれた統一教会による対米政界工作【報道の日2022】

『YouTube』Anaxandridas100 ― SIA – Unstoppable Lyryics video (tribute to Sia &Wonder Woman)