【皇室、徒然なるままに】第31話 筑波大学と福田信之と統一教会が創る魔の三角形《その1》 筑波大学の創設者・福田信之3代目学長 西村 泰一

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タナカ大学とも呼ばれた時期がある筑波大学 福田学長との関係を野坂昭如氏も指摘(画像は『筑波学生新聞』PDFのスクリーンショット)
タナカ大学とも呼ばれた時期がある筑波大学 福田学長との関係を野坂昭如氏も指摘(画像は『筑波学生新聞』PDFのスクリーンショット)

【筑波大学の創設者としての福田信之】

筑波大学は国立大学である。にも拘わらず、その創設者を3代目の福田信之学長(1980年4月1日から1986年3月31日まで)とすることについては、福田の賛同者からも彼と対立していた方々からも、そんなに異論は出ないのではないかと思われる。

福田が旧統一教会会長の久保木修己に会い、教会との関係を深めて行ったのは、彼が東京教育大学の筑波移転推進派として獅子奮迅の活躍をしていた1960年代のこと。続いて1974年に教団系のイベント「希望の日 晩餐会」で文鮮明と出会い、「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)でもたびたび文鮮明と面会。共産主義に対決する姿勢を強めていった。

そのあたりは『第16話 筑波大学の由緒(its distinguished history)を訪ねて:後篇』でも詳しく述べていたが、ここでは福田自身の口から語ってもらおうと思う。



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以下は福田の著書『文鮮明師と金日成主席』(1992年世界日報社刊)よりの引用である。

文鮮明、金日成について著書もある福田信之氏(画像は『ヤフーショッピング』のスクリーンショット)
文鮮明、金日成について著書もある福田信之氏(画像は『ヤフーショッピング』のスクリーンショット)

私も物理学者として研究に打ち込んでいたころは政治家との付き合いもなく、関心は専ら研究上の問題であったが、筑波大学移転問題に取り組み始めて、そうもいっておれなくなった。

 

筑波大学は単なる東京教育大学の筑波移転ではなく、『筑波大学法』を制定しての新大学設立であった。つまり、国会で筑波大学法案を成立させなければ大学は実現しないのである。そのため、政治家への説明や根回しが必要になった。

 

当時、全国の大学には、「筑波大学法案粉砕」のSloganが掲げられ、左翼学生の闘争目標になっていた。筑波大学が、これまでの大学が持っていた講座制を改革し、学際的な研究や教育ができるようにした画期的な構想であったので、革新を旗印にしながらも中身は保守的な左翼勢力には目の敵にされた。

 

私は子供の頃から負けず嫌いで、学生の頃は「Herz(心臓)」と渾名される程、向こう意気が強かった。敵がいて迫害されると、かえってやる気が起きてくる。もし、筑波大学があれほど反対されなければ、私もそれほど情熱をかけなかったかもしれない。

 

練馬区の大泉学園にある私の家の向かいが、筑波大学移転反対派の旗頭である家永三郎・東京教育大学教授の家であった。我家の辺りは、戦前、練兵隊があったところで、それを戦後払い下げを受けた中に、教育大関係者が多かったのである。

 

大学での政治的対立は、当然のことながら、家庭をも巻き込んでしまう。正月には、恒例行事のように、左翼学生がやってきて、「筑波大学反対、福田を倒せ!」とシュプレヒコールするのである。警官も見張りには来るが、止めようとはしない。

 

そこで、何時しかその町内は「喧嘩横丁」と呼ばれるようになった。可哀想なのは、妻たちで、夫にかかわることをお喋りすると、話にどんな尾鰭がついて回るかもしれない。私の家内なども「意味のないことをペラペラ喋ることを覚えたわ」と笑っていた。

 

私に政治家との付き合いを指南したのは、当時三菱化成の社長であった柴田周吉氏である。柴田氏は、東京教育大学の前身である東京高等師範学校の出身で、三輪学長とは同級であった。柴田氏は学園紛争に荒れる母校の姿に心を痛めており、筑波移転を応援しようとしていた。

 

その頃、アメリカでの研究生活を終えて帰ってきた私は、「私の唯一の心残りは母校の現状だ。君のような国際経験があり、元気な人に是非筑波への移転問題に取り組んでほしい」と、柴田氏に熱心に口説かれた。

 

私も物理学界の現状を通して、日本の大学や学界の旧態依然たる体質に失望していたので、「国際A級の大学を創るのなら、半生を捧げても惜しくない」と思い、勝手の分からない大学づくりの道を選んだのである。

 

日本の権力構造は、政界、財界、官界の三竦み状態だとよく言われる。三者が互いに牽制しあい依存しあって、日本の政策が合意形成されるのである。そのうちのどれが欠けても政策決定には至らない。尤も最近では、それにマスコミが加わってくる度合いが増えたきたようだ。

 

当時はマスコミは「朝日新聞」を筆頭に、押し並べて筑波大学には反対であったので、私はしょっちゅうマスコミを相手に喧嘩ばかりしていた。ともあれ柴田氏は、私に政界、財界、官界の主だった人々を紹介し、彼らを招いた席で、筑波への移転や筑波大学の新構想について説明し、応援団になってもらう機会を頻繁に作った。

 

その時に出会った人々の応援もあって、筑波大学法案は大荒れの国会を間一髪で通過した。当時は田中内閣で、与野党伯仲の国会であったので、教育関係の法案は、ともすれば政党間の取引材料に使われることが多かった。

 

しかし、田中首相は、「福田さん、筑波大学法案は絶対に通しますから」と約束してくれ、田中派の見事な結束で、野党の反対を押し切った。その恩義があったので、それ以降、田中派の会合には時々顔を出すようになった。

 

ある時など、田中派の政策集団である新総合政策研究会の発足会に出ていたのがテレビで流れ、それが昼間の勤務時間中だったので、それを偶見ていた副学長が慌てて休暇扱いにするなど、冷や汗もののこともあった。

 

国立大学の学長は海外に出るのにも、一々文部大臣の許可を得なければいけないなど、公務員としての規則に縛られている。特定の政治家の選挙応援することも禁じられていた。しかし、そんなことを気にしていたのでは、政治家の心を動かすことはできない。

 

幸い、口は達者だったので、休暇を取るなどして、色々な政治家の応援演説にもでかけた。そんな泥臭いことをしなければ、筑波大学は生まれなかったし、生まれても立派に育たなかったのである。

 

もし私が一介の学者として文師に出会ったなら、その人柄や話の内容に感心することはなかったのではないかと思う。大学づくりは優れて政治的な事柄であり、その渦中で昨日の友が今日の敵になったり、人間の裏面を嫌というほど、味わわされた。

 

宗教には全く無縁で、理論物理学者らしい、楽観的無神論というような考えであった私も、文氏との縁で、その教えである「統一原理」を聴く機会があった。神の説明では、そういう神であれば、物理学とも矛盾しないなというくらいの感想であったが、イエスの生涯の話には、身につまされるものがあった。

 

イエスは最も信頼していた三弟子に裏切られて十字架にかかったというのである。「そう言えば、俺も随分、この人はと信頼していた人に裏切られたな」と、比較しては申し訳ないかもしれないが、ともかく身近な話として感じたのである。文氏も人一倍人間の悲哀を味わってきた人で、お互いに通じ合うものを感じていた。



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福田が述べているように、筑波大学が成立するためには、筑波大学法案が国会で成立する必要があった。当時、「筑波大学をぶっ潰せ!」というのは左翼の人たちの合言葉でもあった。

福田が「筑波大学法案は大荒れの国会を間一髪で通過した」と言うのは決して誇張ではなく、福田がいなければ「間一髪で通過しなかった」という話で終わっていただろう。そして筑波大学は日の目を見ることはなかった。

その意味で私は福田を「筑波大学の創設者」と呼ぶことに躊躇いはない。大学の先生は多いが、福田のように「田中角栄」や「田中派」と本当の意味で付き合える大学人は極めて稀である。

田中角栄が総理大臣であったのは、1972年7月7日から1974年12月9日までで、在職日数は886日を数えるが、1976年には所謂ロッキード事件に足元を掬われてしまう。ただし、事件後も田中派は100名を越す大派閥を維持し続け、目白の闇将軍として政界に睨みをきかせることとなる。

 

【福田信之の前半生】

福田信之は1920年10月3日に香川県高松市に生まれている。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第一高等学校(現東京大学)、北海道帝国大学理学部を卒業後、理化学研究所に入所。仁科芳雄博士のもとでニ号研究 (原子爆弾開発研究) に携わった。

戦後東京教育大学素粒子論研究所に移り、朝永振一郎先生のもとで、量子電磁気学やくりこみ理論の研究に携わり、1953年に東京教育大学の助教授、1958年に教授となっている。

1963年に文部省の筑波山研究・学園都市構想が発表され、東京教育大学の移転問題が賛否両論に分かれて紛糾してからは、移転を推進する大学執行部に近く、移転賛成派のリーダーとして、積極的に活躍。見た目は見るからに精力的な容貌をしているが、根は小心という印象を持っている。

その小心さをカモフラージュするという側面もあると推測するが、鼻っ柱が強い人物を演じ、ストレートにものを言い、部下を容赦なく叱り飛ばし、相手を敵とみなすと、猛烈に闘争心を掻き立て、威圧的な態度にでる。

昔、筑波大学の社会学類で教鞭を取っておられた80歳を超えた方と話をする機会があったが、「福田さんには随分いじめられました」と仰るので、「彼はドナルド・トランプみたいな男ですからね」と私が返すと、「全くその通り」と笑っておられた。

 

【原爆とラッセル=アインシュタイン宣言と湯川秀樹】

17世紀に万有引力の法則を含む力学を、19世紀には電磁気学を獲得した物理学は、19世紀末から原子のなかに入っていくことになる。こうして1920年代には量子力学を獲得し、それを武器に所謂素粒子論が発展していくことになる。

そうした物理学の発展でわかったのは、原子核には物凄いエネルギーが蓄えられており、これを爆発的に開放すれば原爆や水爆となるし、統制をかけた形で開放すれば、原子力発電として使えるということだった。実際、原爆はアメリカで製造されて、太平洋戦争末期に広島と長崎に落とされることになる。

実際に落とされた原爆の惨状、そして米ソの水爆実験競争に恐れ慄いた物理学者は多く、1955年にはロンドンで、所謂『ラッセル=アインシュタイン宣言』が出されている。

これは哲学・倫理学者のバートランド・ラッセルと物理学者のアルベルト・アインシュタインを中心とした、当時の第一級の科学者ら11人が「核兵器を廃絶し、科学技術の平和的な利用を」と訴えた宣言文である

この宣言には、日本人として初めて1949年にノーベル物理学賞をもらった湯川秀樹も名を連ねていた。



【日本の素粒子論を牽引した物理学者たち】

この湯川秀樹と朝永振一郎、武谷三男、そして坂田昌一が、戦後の日本の素粒子論を牽引したといっても過言ではない。

朝永振一郎は湯川より1歳年上であるが、ノーベル賞を受賞したのは湯川よりも大分遅く、1965年のことである。私は当時、錦林小学校(京都市左京区)の6年生で、なんと卒業生でいらっしゃる朝永先生を皆でお迎えし、講演を拝聴したことを覚えている。

話の内容は、あまりにも高尚すぎて、すっかり忘れてしまったが。朝永先生は東京教育大学の学長をなさっている(1956年7月18日 – 1962年7月17日)。朝永先生の後に東京教育大学の学長となるのが、後に初代筑波大学学長となる三輪知雄である(1962年7月18日 – 1969年1月16日)。

次に武谷三男であるが、太平洋戦争の最中に理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)に関わっていた。なかなか反骨精神の旺盛な方で、戦前、湯川秀樹、坂田昌一を共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進める傍ら、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』や『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって特別高等警察に検挙されている。

最後の坂田昌一は1955年、中性子・陽子・ラムダ粒子が最も基本的な粒子で、他のハドロンはこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという、『坂田模型(ハドロンの複合模型)』を発表している。

坂田模型は、マレー・ゲルマンとジョージ・ツワイクのクォークモデルに影響を与えたが、1969年のノーベル物理学賞はマレー・ゲルマンにのみ授与された。その後、ノーベル物理学委員会のメンバーであるイヴァー・ウォーラー (Ivar Waller) は、坂田が受賞できなかったことに遺憾の意を表明した。

1970年9月、湯川秀樹はウォーラーに、坂田がノーベル賞に推薦された時点で病に伏していたことを手紙で懇切丁寧に伝えている。その後、坂田の容体は著しく悪化し、3週間後に59歳で死去。湯川は「坂田に授賞がなされていれば、多くの栄誉と励ましがもたらされていただろう」とウォーラーに伝えている。

 

【素粒子論グループ「ハト派」と「タカ派」の対立】

1961年3月、朝日新聞の学芸欄に『坂田模型をめぐって』という福田信之の論考が掲載された。

内容は「3月20日、21日の両日に京大で行われた素粒子構造研究会で、名古屋大学教授・坂田昌一氏の坂田模型がアメリカで実証されたと発表されたが、軽率だ」という類の挑発的なもので、素粒子論グループの内ゲバの発端となった。

素粒子論グループにおいて、湯川秀樹先生を始めとする4人の大御所はいずれもハト派で、反戦、平和擁護、原爆反対などで一致。核開発についても極めて慎重であった。

これに対し、福田を代表格とする素粒子論学界の主に若手からなるタカ派は、ハト派をなんとか押しのけようと画策していたが、形勢は明らかにタカ派に不利であった。

「湯川、坂田の時代はもう終わりに近づいている」と高飛車に笑っていた福田だが、大多数の物理学者の目には、湯川や坂田の大御所をなんとかやっつけ、学界を牛耳りたいという彼の魂胆が見え見えで、「とても一緒にはやれない」というのが偽らざる気持ちであった。

福田というのは、学者には珍しく権力指向型の政治家タイプの人間なのである。そして彼の関心は、やがて物理学を離れ筑波大学へと向かっていく――。

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それでは第31話の締めくくりの1曲、『【Jill】鬼滅の刃「紅蓮華」バイオリンで弾いてみた / Demon Slayer:Kimetsu no Yaiba OP “Gurenge” Violin Cover』をどうぞ!

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『筑波學生新聞』1984年4月14日

『Wikipedia』田中角栄

『ヤフーショッピング』福田信之 ― 文鮮明師と金日成主席 : 開かれた南北統一の道

『筑波學生新聞』1985年11月10日

『日本パグウォッシュ会議』ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)

『YouTube』 JillviolinChannel ― 【Jill】鬼滅の刃「紅蓮華」バイオリンで弾いてみた / Demon Slayer:Kimetsu no Yaiba OP “Gurenge” Violin Cover

『エトセトラ・ジャパン』【皇室、徒然なるままに】第16話 筑波大学の由緒を訪ねて:後篇

『エトセトラ・ジャパン』筑波大学の話題の元学長・福田信之氏を論じる   第一部:エトセトラ・ジャパン/第二部:西村泰一