【皇室、徒然なるままに】第16話 筑波大学の由緒(its distinguished history)を訪ねて:後篇 西村 泰一

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『環境を守るための科学と技術』@筑波大学大学院数理物質科学研究科のポスター(西村 泰一先生がデザイン画を担当)
西村 泰一先生のデザイン画『環境を守るための科学と技術』 筑波大学大学院数理物質科学研究科・広報委員長の依頼を受けて作成された

 

結論:筑波大学も統一教会も冷戦の申し子である。

なぜそこに至るのか、以下の順で説明してみたい。なお、前篇は4の統一教会まで、このたびの後篇は5-7となる。

1 マルクス主義
2 ソビエト帝国
3 冷戦
4 統一教会
*********************
5 日本社会党
【55年体制】
【日本社会党の変遷】
【窮乏化法則】
【日本資本主義論争】
【マルクス経済学と日本の大学】

6 学生運動

7 筑波大学降臨
【波乱万丈だった東京教育大学の筑波移転】
【筑波大学発足】
【福田信之=筑波大学の創設者】
【143名の筑波大生、公職選挙法違反事件】



◆日本社会党

【55年体制】

1955年(昭和30年)、衆議院において保守一党優位の政治体制「55年体制」が確立された。自由民主党が3分の2弱の議席を確保し、野党第1党は日本社会党とその他非自社政党の合計で3分の1強を占めた。

党内で左右両派に分裂していた日本社会党が,左派の躍進で憲法改正の発議を阻止するのに必要な3分の1議席を獲得。与党日本民主党の鳩山一郎内閣が目指す憲法改正(自主憲法制定)・再軍備を阻止する目的もあり,55年10月には左派と右派は統一を実現した。なお日本社会党の”社会”は”社会主義を信奉する”という意味である。

1993年の総選挙で自由民主党が衆議院議席数の過半数を割り込み,日本新党党首の細川護煕(ほそかわ もりひろ)による非自民8党派の連立政権が成立。政権自体は短命だったが、自由民主党が40年も議席の絶対多数を占めていた55年体制は崩壊した。

 

【日本社会党の変遷】

1960年代後半から1970年代前半にかけ、全国の主要都市で社会党・共産党系の公認・推薦・支持による革新首長が続々と誕生した。

社会党は共産党との連携による社共共闘を軸にその実現に大きな役割を果たし、護憲・民主・中立の国民戦線を基礎にした国民統一政府の構想をも発表。しかし1970年代後半には低成長経済、保守側の反撃、社共間の軋轢(あつれき)に直面した。

また、1960年代後半以降も労組(総評)依存、議員党的組織体質がみられた社会党は、公明、共産両党による挟撃や総評の地盤沈下に苦しめられ、1977年の江田副委員長の離党、1978年3月の社会民主連合の結成、委員長の交替が続くも長期の低落傾向へ。1980年1月、飛鳥田執行部は共産党を除外する社公民路線に踏み切った。

また人事面では、1986年7月の衆参同時選挙での惨敗を理由に石橋政嗣(まさし)委員長が辞任し、土井たか子が委員長に選ばれると、その後は議席を大幅に増やした。

1993年、8党派の連立による細川護熙(もりひろ)政権が成立すると、社会党も加わったが、羽田孜内閣の発足に際しては、新生党などによる統一会派「改新」の結成に反発して与党から離脱。村山富市委員長を首班とする自民・社会・新党さきがけの連立で村山内閣が成立した。

1996年1月19日、党の第64回大会で「社会民主党」に党名を変更し、社会党は半世紀に及ぶ歴史をひとまず閉じたのである。

 

【窮乏化(きゅうぼうか)法則】

資本主義の発展に伴い、マルクスは「資本論」において、いわゆる「窮乏化法則」を主張した。

資本の有機的構成は高度化し、資本の集中、蓄積は進み、資本は利潤を蓄積していくが、反面、労働者階級の実質賃金、労働条件、生活水準は低下し、生活環境は悪化する。

こうした法則は、劣悪な労働環境の下で女性や子供までもが大勢働くことになった19世紀のイギリスや、細井 和喜蔵(ほそい わきぞう)の”女工哀史”(山本茂実は1968年にノンフィクション文学『あゝ野麦峠』でこれを文学化し、それはテレビドラマ化され、1980年4月1日から5月27日まで、TBS系列で放映された)の世界が眼前に広がる戦前の日本では、当てはまっているように見えるかもしれない。

だが高度成長を経て、資本家だけでなく労働者もそれなりに豊かになることができた日本で、これはやや貧乏臭い話であり、ソビエト帝国の崩壊を待たず、社会主義は急速に魅力を失っていった。

 

【日本資本主義論争】
マルクスの史的唯物論は、ヨーロッパの歴史的発展をモデルとしたもので、これを極東の島国・日本に当てはめようとすると、無理が起こってくるのは致し方のない話であった。

ここで起こったのが日本資本主義論争。この論争は、1922年(大正11)に結成された日本共産党が、翌年に解体して1926年に再建される過程で、日本のマルクス主義者が「共産党系」「非共産党系(労農派)」に二分されたことに端を発している。

共産党系と労農派との対立点は社会主義運動のすべての側面に及ぶが、革命戦略および、その前提となる日本の政治・経済構造の認識における対立は特に重要なものであった。

共産党系は、日本の国家機構や地主・小作関係の半封建的性格を強調し、ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命へという二段階革命戦略を主張したが、労農派は、日本の国家権力はすでに金融ブルジョアジーの手中にあり、「資本主義を倒すことなしには封建遺制も清算できない」と論じた。

1932年からは山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総(はっとりしそう)、小林良正などにより全7巻の『日本資本主義発達史講座』が刊行され、1934年には『講座』所収の論文が『日本資本主義分析』『日本資本主義社会の機構』として刊行された。

『講座』の諸論文、日本資本主義の半封建的特質を重視する人々は「講座派」と呼ばれ、知識人の間に大きな反響をよんだが、労農派系の学者、評論家からの批判を呼び起こした。そうした論争が日本の社会科学の発展に及ぼした影響はきわめて大きい。



【マルクス経済学と日本の大学】

日本の経済学は、長いこと近代経済学とマルクス経済学に分かれ、歴史的には「マルクス経済学の影響が強い」という側面があった。

早稲田大学、慶應義塾大学、東京商科大学(現・一橋大学)ではマルクス派が主流とならなかった一方、東京・京都の旧帝国大学の経済学部では、マルクス派が多数派となった。

戦前の東京・京都帝大経済学部は、マルクス派、皇国経済学派、リベラル派の三つ巴であったが、戦後は右翼系の経済学者が戦争責任を負わされる形で大学を追放され、その後任に左翼系のマルクス派が主流となるような人事が実行された。

戦後しばらくの間、日本の経済学界では講座派、労農派らによるマルクス経済学が主流であり、終戦直後の傾斜生産方式による戦後復興は、マルクス経済学者(有沢広巳)による発案である。

だが冷戦終結後は社会主義国の崩壊の影響で、大学でマルクス経済学を学ぼうとする学生が激減。旧帝国大系の経済学部において、近代経済学への移行がみられた。

マルクス経済学側でも「社会経済学」「政治経済学」と名称を変えて退潮を阻止しようと試みているようだが、なかなか大変であるとも聞く。2022年時点で、「マルクス経済学」の名称が残っている大学には、慶應義塾大学、大阪市立大学がある。

 

◆学生運動

文部科学省のホームページに、学生運動についての簡潔にして要を得た説明があるので、まずそれを見てみよう。

学生運動は、昭和三十年代においては、日米安保条約反対闘争などをめぐって運動が過激化したが、四十年代になると、政治闘争に加えて大学の管理運営や学費値上げなど学園問題を取り上げ、一般学生を巻き込む形で大学内における紛争が頻発するようになり、四十四年一月の東京大学安田講堂事件の前後から、大学紛争は全国に拡大し、過激化、長期化した。

 

このころ、欧米諸国においても、ベトナム反戦運動等を契機として、学生運動が多発したが、これらは戦後に生まれ育った学生、大学の大衆化、新左翼の台頭など共通する背景を有しており、我が国の学園紛争もこのような国際的な時代の流れの中にあったと言われている。

 

しかしながら、四十四年八月、長期間の紛争校に対する教育等の停止・休止措置等を内容とする大学の運営に関する臨時措置法が成立してからは、各大学における大学改革への取組が進むとともに紛争の自主解決が図られ、同年十一月以降は急速に鎮静化の方向に向かい、一般学生の学生運動離れが進行し、闘争の場は学園外に重点が移るようになった。

 

このような中、孤立化した過激派の暴力的党派抗争が多発して死傷者も数多く出た。また、四十七年には学生を含む過激派集団によって連合赤軍リンチ事件や浅間山荘事件などが引き起こされ、社会を驚かせたが、大学の問題として論議されることは次第に少なくなった。

 

このように紛争事案は減少したものの、過激各派が一部の学園施設を政治闘争の拠点として利用し、勢力を拡大しようとする動きはいまだ続いている。闘争目標とされた主要なものには、「成田空港開港」(五十三年)、「東京サミット」(六十一年)、「大喪の礼」(平成元年)、「即位の礼・大嘗(じょう)祭」(二年)がある。

 

1960年代は政治の季節で、右も左もとても熱くなる人を生み出している。右で熱くなった人の代表が第3代筑波大学学長を務めた福田信之であり、左で熱くなった人の代表が「東大全共闘にその人あり」といわれた山本義隆である。どちらも政治づく前は素粒子論を勉強していた。福田については次の項目のなかで触れることにし、ここでは山本についてWikipediaで見てみたい。

大阪府出身。大阪市立船場中学校、大阪府立大手前高等学校を経て、1960年(昭和35年)東京大学理科一類入学、1964年 (昭和39年)東京大学理学部物理学科卒業。

 

その後、同大学院で素粒子論を専攻、京都大学基礎物理学研究所に国内留学する。秀才でならし、将来を嘱望されていたにもかかわらず、学生運動に没入した。学生運動の後は大学を去り、大学での研究生活に戻ることはなかった。

 

1960年代、東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務める。1969年 (昭和44年) の安田講堂事件前に警察の指名手配を受け地下に潜伏するが、同年9月の日比谷での全国全共闘連合結成大会の会場で警察当局に逮捕された。

 

日大全共闘議長の秋田明大(あきた あけひろ)とともに、全共闘を象徴する存在であったが、くしくも2人は拘置所で顔を合わせることとなった。なお、全共闘に関するマスコミ取材は一切受けていない。

 

山本はその後、駿台の教師として30年以上過ごし、科学史関係の書物も多く著している。私も少し縁があって、彼の『幾何光学の正準理論』という本の書評を英文で書いているので、興味がおありの方はご覧いただきたい。

ここで、NHKアーカイブズによる『大学紛争 東大安田講堂事件』という1969年の動画も御案内してみたい。東京教育大学の筑波移転という話は、そうした雰囲気のなかで進められていたということに留意してほしいのだ。

 

◆筑波大学降臨

【波乱万丈だった東京教育大学の筑波移転】
筑波大学は今年、創基151年創立50周年ということで、色々と祝賀行事を用意しているようである。

1949年に設置された東京教育大学の前身を東京文理科大学・東京高等師範学校とすることに何の問題もないが、1974年に設置された筑波大学の前身を東京教育大学とすることには、かなり無理がある。むしろ東京教育大学は廃学して、筑波大学という全く新しい大学を作ったと考えるほうが自然である。

東京教育大学は学部キャンパスが3か所に分散し、文京区大塚には文学部・理学部・教育学部が、目黒区駒場には農学部が、渋谷区幡ヶ谷には体育学部があった。キャンパスが分散したタコ足大学で、狭隘を訴える学部では自主移転を検討したが、困難であった。

1962年から移転先として本格的に交渉されるようになったのが、八王子南部、東松山、原町田、八王子北部の4か所であったが、予算措置や用地買収をどうするのかなど多くの困難を伴った。

1963年に筑波研究学園都市建設の閣議決定が発表された。この学園都市の中核的施設の一つとして「国立の総合大学」があり、文部省には大学新設の意図はなかったため、都内の国立総合大学を移転させるか、茨城大学を水戸から筑波に移転させるしかなかった。

理科系中心のこの研究学園都市構想は、貿易自由化に対処して国際的水準の研究体制を完成することを目指し、首都圏整備委員会にとって、工学部はないが理科系学部を有する総合大学の東京教育大は、うってつけというべき存在であった。

東京教育大では同年9月から相次いで臨時教授会が開かれ、この問題を検討。各学部の態度は以下のようであった。

体育学部農学部は条件付賛成。

 

教育学部も条件付賛成であるが、条件については今後くわしく検討する。

 

理学部は慎重論が多く7日までには結論が出なかった。

 

文学部も慎重論が多数を占め16対50で今すぐ移転することには反対だった。

 

光学研究所は無条件賛成だった。

これを大学の最高意志決定機関である評議会が強行採決したことで、学生・院生らが反対運動を起こし、「移転反対・学生の参加による審議過程の民主化を」と訴えた。

1967年7月にはピケットストライキが、1968年6月下旬から1969年2月末まではバリケードストライキが行われ、事務棟封鎖を含むストライキは長期化した。これらのストライキの背景には、「移転反対」よりは、移転推進派が従来の全会一致原則を破っての強行採決をしたことへの抗議も含まれていたと考えられる。

1973年9月、筑波大学法案(国立学校設置法の一部改定案)が国会で成立し、同年10月1日に筑波大学が開学発足。翌1974年4月には第1期生が入学し、東京教育大学は1978年3月31日にその幕を閉じた。

1966年10月28日、評議会の席で三輪学長が和歌森太郎文学部長を「学部をまとめられないのか!」と罵倒。これに対する抗議の辞任、評議会の出席拒否などが起こった。1967年6月、評議会が筑波に土地確保を希望したときも、文学部評議員は抗議のため退席。学長=移転推進派、文学部教授会=移転慎重派と、評議会は決定的な亀裂に至った。

文学部学生大会はE館(文学部・教育学部棟)および本館(事務棟)の封鎖を決定し、学生の「6.20評議会決定反対運動」は、理・教・農学部にも広がりを見せ、学生たちは全学闘争委員会(略称=全学闘)を結成した。68-69年の学生運動を「全共闘運動」と言うことが多いが、東京教育大闘争に「全共闘」はなかった。

学外でもベトナム反戦運動や、各大学で生起した様々な問題に絡んで全共闘運動が盛んであり、1969年の入学試験は体育学部のみ実施され、この年は体育学部以外の新入生がいなかった。1969年1月4日、入試中止の責任を取って学長以下の全評議員が辞任した。

2月28日10時30分、大塚・駒場の両キャンパスに、学長代行が専断で機動隊を導入して学生を排除し入構を禁止した。これに対し、文学部教授会と教育学部教授会は抗議声明を発表した。その混乱の中、ドイツ文学の桜井正寅教授が心筋梗塞で亡くなった。深夜1時すぎに帰宅した後のことであった。桜井教授は大正3年生まれ、まだ54歳だった。

6月23日、全学闘が「キャンパス奪還」のため大塚構内に突入し、多くの逮捕者を出した。7月4日、マスタープラン委員会が評議会に移転計画を答申したのに対し、全学闘は大塚構内で抗議闘争を行った。

7月31日には、教職員有志518人が移転決定強行に抗議声明を出すという動きもあったが、9月に文学部教授会が授業を再開しようとしたところ、学長代行は「誓約書」と引き換えに発行される「入構証」を持つ学生のみ入構を認めるとし、これにより学長代行の思う通りの「正常化」が図られた。



【筑波大学発足】
東京教育大学の移転推進派は、1967年6月の「土地確保表明決定」以降、7-8月には「マスタープラン検討委員会」を組織。11月7日には評議会にマスタープラン8項目を報告し、1971年6月には「筑波新大学に関する基本計画案」を策定していた。

ここまでの推移を見るだけでも、「筑波大学」をどのような大学にするかについて、東京教育大学の意向だけによるものではないことが分かる。

文部省はこれ以降、医学部不在の県で単科の「医科大学」を、また3つの「教育大学」を新設する。一県一医大構想は本来、その県にある既存の国立大学に医学部を新設すべきなのだが、その評議会・教授会との折衝の煩を厭った文部官僚の手抜きのせいで、すべて単科大学の新設でことを済ませている。

筑波大学には学部制度がなく学群・学類制度であるが、1974年4月には教育学部・農学部に相当する分野の学群・学類が開学できなかったのか、東京教育大学教育学部・農学部で学部学生の入学があった。

文・理・体の3学部では1977年3月の定員消滅に合わせて、その4年前に最後の学部生受け入れ、3年前に最後の博士課程生受け入れ、2年前に最後の修士課程生受け入れとなった。一方、教育学部・農学部では1978年3月の定員消滅に合わせ、同様の措置が採られたのである。

 

【福田信之=筑波大学の創設者】
慶應義塾大学の創設者は福沢諭吉で早稲田大学の創設者は大隈重信であることはよく知られている。

そして筑波大学は、国立大学であるにも拘わらず、その創設者を1980年4月1日から1986.3月31日まで第3代目の学長を務めた福田信之とすることは、福田の賛同者からも彼と対立していた方々からも、そんなに異論は出ないのではないかと思われる。

それほど彼の東京教育大学の筑波移転推進でみせた八面六臂の活躍は今も語り草になっている。

福田が旧統一教会会長の久保木修己に会い、真の宗教人だと感銘し、教会との関係を深めて行くのは、彼が東京教育大学の筑波移転推進派として獅子奮迅の活躍をしていた1960年代の話である。

1974年5月、福田信之は帝国ホテルにて開催された教団系のイベント「希望の日 晩餐会」に筑波大学学長の三輪知雄と共に招かれ、文鮮明と初めて会った。その後も「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)でもたびたび文鮮明と面会。学園紛争、左派による学生運動対策など、共産主義に対決するためだったなどと表明している。

1976年、衆議院文教委員会では、当時筑波大学副学長だった福田の教団との密接な関係が政治的・宗教的中立性の観点から問題視されたが、1983年11月には米国で文鮮明が主宰した昼食会に参加し、文鮮明が脱税により米国で逮捕されると、教団や国際勝共連合の機関紙に米当局を非難する談話を寄せた。

なんとコネチカット州の刑務所にまで文鮮明とに会いに行き、帰国後「東アジア総合研究プロジェクト」を発足させた。韓国にも度々渡航していたが、大学側はその目的について把握していなかった。

また、福田が学長を務めていた1984年に新設された「国際関係学類」は、「政治色が強い」「まるで政治団体のよう」として問題視された。朝日新聞は関係者の証言を元に、福田が「世界平和教授アカデミー」の活動を基盤に、右傾化および自民党の政治路線への寄与を狙っている可能性について言及している。

福田が学長になる少し前の1980年2月15日、特定の受験生の推薦合格に便宜を図るように不正工作をした疑いがあるとして、学内の2人の教授から告発されたと新聞に報じられた。福田はこれを否定し、文部大臣も「文部省として直ちに調査に乗り出す考えはない」と表明。筑波大学も、「調査の結果、推薦入試の選考で不正が行われた事実はない」と述べていた。

 

【143名の筑波大生、公職選挙法違反事件】

開学間もない筑波大学で1978年、茨城県県会議員選挙のため、多くの学生が組織的に買収され(一人あたり数千円)、143名の書類送検者を出すに至った事件が起きた。

さらに世間を驚かせたのは、筑波大学がこれらの学生に何ら処分を下さなかったことである。

これと昨年の春の悠仁君の筑附入学において、入学式でいささかオフザケが過ぎた筑波大学附属高等学校の生徒に対し、無期停学の処分が下された案件を比較されたい。

もう一言申し添えておくと…。

悠仁君の筑附入学に関し、筑波大の永田恭介学長が「本学の正当な手続きにより入学が認められました」と記者会見で縷説なさったことは、きわめて当然のこととして受け止めていますが、「悠仁さまのご入学は、本学にとって大変名誉なこと」という言明は、政治的に踏み込み過ぎです。そういうことは、着物を着て、得意の大股開きで闊歩なさる秋篠宮紀子様と二人きりでお話なさる機会でもあれば、その折に仰っしゃればいいことです。

 

最後に、中島みゆきさんのYouTubeの動画を4本ご紹介したい。体制と闘うミャンマー、香港、タイ、そして日本の若者たちの映像を、名曲『世情』と共にご覧いただきたいと思う。

 

 

 

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『つくばリポジトリ』デザイン画/筑波大学数理物質科学研究科『虎と一緒に行く科学技術週間』西村 泰一

『コトバンク』日本資本主義論争

『NHKアーカイブズ』大学紛争 東大安田講堂事件 放送年:1969年

『文部科学省』学生運動 ― 学園紛争の鎮静化

『Wikipedia』山本義隆

『Wikipedia』世界平和統一家庭連合

『Amazon』山本義隆 ― 幾何光学の正準理論

『Wikipedia』筑波移転反対闘争

『YouTube』ポンコツおじさんチャンネル ― 中島みゆき 世情 ミャンマー国民のシュプレヒコール

『YouTube』 Stanley NG ― 中島美雪 – 世情 (獻給在雨傘革命中曾並肩作戰的香港人) 日漢字幕

『YouTube』ポンコツおじさんチャンネル ― 中島みゆき 世情 タイ国民のシュプレヒコール

『YouTube』 XXkurage29 ― 世情 ‐ 中島みゆきCover XXkurage

『エトセトラ・ジャパン』【皇室、徒然なるままに】第15話 筑波大学の由緒(its distinguished history)を訪ねて:前篇 西村 泰一