「昭和天皇実録」「卜部亮吾侍従日記」についてのご質問内容にKさんよりご回答
先にご案内させていただきました、「昭和天皇実録」「卜部亮吾侍従日記」についての皆様からのご質問。19日に締め切らせていただき、昨日、Kさんよりご回答をお預かりいたしました。
以下の通り、紹介させていただきたいと思います(原文ママ 茶色がご質問内容)。
****************
昭和天皇実録は、陛下の1日のご動静を侍従日誌、侍従職日誌、内舎人日誌、女官長日誌、女官日誌、宮内庁庁報、官報、幸啓録、上奏モノ控簿、恩賜録、拝謁録、宮殿行事録、入江相政日記等より引用されて書かれています。
卜部亮吾侍従日記は、起床時間に始まり、食事内容や勤務外の出来事等のご自身の事、業務内容や面会相手、香淳皇后さまのご動静等が簡潔に書かれています。皇室に関する週刊誌記事についての記載も見かけましたが、感想は数文字程度でした。対象期間は、昭和天皇崩御後ですので、ご質問のほとんどが対象期間外と思われます。
それぞれの本が500ページから700ページあるものですので、まだ、すべてを読み切れていません。今回は、ご質問のあった箇所を中心に読みました。
民俗学に興味があり、日頃より書籍を読んだりしています。胞衣納については、今回初めて知った事柄で、今後も資料を読んでいきます。何かわかりましたら、ぜひ、ご報告させていただければと思います。
報道、週刊誌情報については、機会がありましたら調べてみます。こちらに関しては、様々な書籍を読んで行く中で、『ありましたよ』という程度に考えていますので、期待薄としてお考えください。
また、質問内容の記事のコメント欄にありましたお印ですが、昭和天皇実録には、書かれていませんでした。敬宮殿下の場合、両陛下がお選びになり、上皇、上皇后陛下にご相談されたそうですので、御三方の記録については、上皇実録か上皇后実録が作成された場合に記載されるのかもしれません。
昭和天皇実録は、昭和35年〜44年、卜部亮吾侍従日記は、昭和64年から平成14年です。その期間外のものは『対象期間外』とさせていただきました(対象期間を見誤ってしまわれた方もいらっしゃったようです)。
■新平民(群馬県館林市)でありながら(正田家はそこから分家したそうですね)、昭和33年ご成婚に至った美智子さまは、内部でしか分からない何かエピソードなどの記述がありますでしょうか? 婚約者までいたというのに、不貞の文字がよぎります。明仁さんと知り合うきっかけは、皇族政治家でも入会許可が中々出ない「東京ローンテニスクラブ」に正田家が「家族会員」で入会して、美智子さんが積極的テニスに行かれたとか…
→昭和天皇実録の対象期間外です。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■作家の川端康成氏が葉山?の御用邸で美智子様にお会いした際の記事で、「今にも生まれそうな臨月のようなお姿だった、、」と。そのような川端氏との面会の記事など実録にありませんか? 昭和天皇が亡くなられたのは昭和64年1月7日ですがコメント欄には本当はその前に亡くなられていたけどお正月だったから発表を遅らせたと書いてありました。侍従さんの日記に書いてないでしょうか?
→昭和天皇実録ですので、皇太子妃のご動静の記載はありません。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間は昭和64年1月1日からのものになります。1日から前日まで陛下の体温、血圧、呼吸数、血液検査の数値、輸血量が記載されています。また、急変されたことをご自宅で7日朝5時前に連絡を受けたと記載があります。
■>溺愛の次男は、美智子さまが葉山の御用邸で療養中に 授かった怪しい子
昭和天皇は、礼宮が自分の孫では無い事を御存知だったと聞き及んでいます。美智子さまは細身で、臨月になるまで周囲の侍従は懐妊に気付かなかった…と。それさえも事実かどうか分かりません、菊のカーテンの奥の事なので。人目に出す前に 養子?にとか、実は美智子さまの妹の子だとか…の噂も聞いています。でも、皇族の不祥事を世間に曝す事も出来ず、礼宮を孫として認めたそうです。成人しても「宮家は持たせない」との約束で。2024.6.3 皇○新○にあった投稿です。この頃の事、実録で調べることできないでしょうか?
→昭和天皇実録は、天皇陛下のご動静が記載されています。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■14日に逝去された千玄室さんの出自と家系を伺いたいです。やはり深~く何かが繋がっているようですね。超高齢の寿命を得て、102年間は当然激動の最中であったと思います。イケメンの次男に先立たれて、昨年はお孫さんにも先立たれて悲しい時間を過ごしたのでしょう。別嬪さんの奥様も先立ってしまわれました。奥様は生前「是非にも皇族との御縁を賜りたい。」と熱心に語っていたそうです。結果、三笠宮容子内親王と結婚して、長男が裏千家家元を継ぎ16代目に至ります。何故、奥様が皇族に固執したのか知りたい。池坊家も仏教の歴史に存在しています。何かありそう。池坊家家元は初めて女性が襲名しましたね。(皇室の周囲から女性が代表に就任する時代の移り変わり。皇室も愛子皇太子殿下の実現する時代。)玄室さんの奥様も逝去されて30年近い年月が過ぎています。彼の地で皆が再会して労っているのかな? 御遺族方は服喪が重なってしまいました。
→昭和天皇実録に、記載はないと思われます。祝宴などの際に、「元皇族・縁故者の参加」という記載がありますが、氏名での記載はありません。昭和天皇というより、香淳皇后、久邇宮邦彦王のお二方の、茶道への造詣の深さは、茶道文化の発展に寄与したと書かれているものがあると聞きました。また、13代家元に師事されいたとの記録もあるようです。皇族と裏千家の関係は、とても近しいものだったのではないかと推察いたします。職員の方にも、旧皇族の縁故者も多いのではないでしょうか。
■川島家ではなぜ七代遡る家系図調査や過去帳調査を拒否したのか。その後、いろいろ飾り立てられるも、最初の原点がここなので、ゆるがせにできないのはここです。
→昭和天皇実録の対象期間外です。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■香淳皇后が妊娠中の美智子妃の見舞いに行ったが、非常に立腹して帰ってきた。昭和帝はすでにご承知だったようで、その話を聞いても平然としていた。という話。その本でなかったかもしれませんが、確認できるものであればしておきたいです。昭和40年の話、低確率だけど39年後半の可能性もあります。
→昭和天皇実録は、天皇陛下のご動静が記載されています。香淳皇后実録は、今年度発行予定となっておりますので、皇后陛下のご動静をご確認いただけるかもしれません。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■>宮内庁が本来ならば七代遡って調査するべき家系図調査や寺の過去帳調査を「結婚差別だ」と紀子さまの父が大反対し、野中国会議員を伴って、美智子さまと直談判して中止させたとかで、最初から大荒れムードだったように長年聞かされてきております。この頃の事?「川嶋某不快なり、、」の昭和天皇の発言。この事について何か記入ありませんか?
→昭和天皇実録の対象期間外です。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■「礼宮は大学卒業したら、皇室から出て行け」と言われていたと聞いたことありますが、その辺りのことは書かれていますか?
→昭和天皇実録の対象期間外です。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■アーヤご懐妊の頃のことを知りたいです。上皇后がアーヤをご出産されたことについて、当時の朧げな記憶ですが、実家の母が「おめでたの発表もないのにいつのまにか生まれた」と不思議がっていたのです。「ぶどう子なのに良く授かった」とも言っていた記憶があるので、どこかにそのことについて書かれていないものかと思います。
→昭和天皇実録 第14より
皇太子妃内着帯 昭和40年7月7日
皇太子妃着帯 昭和40年10月11日
皇孫誕生 昭和40年11月30日
※その後、御対面になられたり、命名の儀、浴湯の儀などの記載がありました。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■美智子さまは結婚前に子供を産める身体と確認したのでしょうか?
→昭和天皇実録の対象期間外です。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■「安西」「昭和電工」「恵美子さん」で何か言及されていないか、わかると有り難いです。
→昭和天皇実録に、該当される氏名、名称は書かれていないと思われます。御縁故者という記述はでてきますが、氏名での記載はありませんのでわかりません。
→卜部亮吾侍従日記に記載はありません。
■秋篠宮が生まれた頃の事は書かれてないでしょうか? 美智子さまがその少し前に胞状奇胎になられた時の事などを知りたいです。
→昭和天皇実録には、1963年3月22日 皇太子妃入院、流産の手術を受け、25日まで入院する。(昭和天皇実録より一部抜粋)と記載がありました。ご誕生については、3つ前の質問と同じですので省略します。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■「浩宮の次は浩宮の子」という昭和天皇のご発言について、書かれていないか知りたいです。この頃はすでに、男のお孫さんお二人について「賢く品行方正な浩宮」「多動で感情の制御が効かない礼宮」と、差がはっきりとしていたと思うのです。(朝比奈より)
→昭和天皇実録は、陛下のご動静が記載されています。
→卜部亮吾侍従日記の対象期間外です。
■昭和60年代に宮内庁に勤めていた方なら皆さんご存じだという「川嶋某不快なり」というご発言が気になっています。(朝比奈より)
→昭和天皇実録は、期間対象外です。
→卜部亮吾侍従日記は、期間対象外です。
以上となります。
侍従日記は、ほかにも何人か出版されています。こちらを深く読み解けば、みなさんが期待するものを見つけることができるやもしれません。個人の感想なども、数文字ですが書かれています。
••┈┈┈┈••✼✼✼••┈┈┈┈••
東京都のKさんからのメールは以上となります。
Kさん、お忙しいなかお調べ頂きまして、大変ありがとうございました。
筆者は今ちょっと反省しております。あまり深く考えもせず自分が先頭を切って挙げてみた2点(浩宮の次は~/川嶋某不快なり)は、もしもそれらの本に書いてあるなら、とっくの昔に皇室系YouTuberさんが気づいて、動画で紹介しているはずのお話なのでした。せっかくの良い機会、もっと高尚な事柄をお尋ねするべきだったのです。
Kさんにはただただ申し訳なく、もっともっと勉強しなければと思いました。
(朝比奈ゆかり/エトセトラ)
Aに調べてもらったところ、
①川端康成氏が葉山御用邸で美智子様にお会いした際に「今にも生まれそうな臨月のようなお姿だった」と述べたという具体的な記述は 見つかっていません。 (1enjoyworks.jp 2ja.wikipedia.org 3www.bs-asahi.co.jp)
②昭和36年(1961年)9月に軽井沢の川端康成氏の別荘に美智子妃殿下が「おしのび」でご来臨されたという情報が、軽井沢文化遺産保存会が公開している動画にあります。
また、読売新聞の記事でも、川端康成の軽井沢別荘に皇太子ご夫妻(当時)が「お忍びで訪ねられた」という記述があります。(1www.youtube.com 2www.yomiuri.co.jp)
…以上が伝えられました。②の具体的数字も、文仁さんの生年、1965年(昭和40年)11月30日の1年以上前の記述で、①の根拠にはなりませんね。お知らせまで。
胞状奇胎の治療法を「現代の」医学水準でいくら議論しても意味がありません。
昭和30年代は、癌になる危険がある胞状奇胎は、大事をとって子宮を全摘していました。当時の文献でもーー。
「絨毛上皮腫の疑いのあるような場合は子宮全摘手術を行う。東洋は西洋に比べ、胞状奇胎多く、また悪性化しやすい、人種的特徴といえる。」(臨床病態生理学大系編集委員会 編『臨床病態生理学大系』)
全身への転移可能性があり、「原則として手術可能例には単純子宮全摘術を行い、放射線療法及び化学療法を併用し」(『広島医学』122頁,広島医学会,1960年4月号)
などとあります。
症例をみても、現代と比べ、検査の機器と手法が未発達だったことで、癌の発見が遅くなるケースが圧倒的に多かったようですから、現代なら温存できたかもしれない子宮でも、癌のリスクを怖れて昔はより積極的に単純全摘してきていたのです。
ここからは私見です。
母上の身分の良し悪しが厳しく問われる第1親王は、さる高貴な名門出の女性に産んでもらったのではないでしょうか。美智子さんは出自に問題あり、という噂を聞いたことがあります。その代わり、次に妊娠する次男(宮家を与えず臣籍降下させる前提で)か長女は「自分で産んでもよい」とのお許しがあった。ところが、その前に子宮全摘と相成った。安西家から男児を闇養子してくるという希望も、どうせ皇位に関係のない子だし、美智子さんの感情が落ち着くなら、ベビー人形のように外から子を貰ってきても構わないとして黙認された ― こう思えてなりません。
Kさん、ありがとうございます。私自身は質問しておりませんが、迅速なご回答に誠実なお人柄を見た気持ちです。
さて、Kさんからの情報「1963年3月」JKGが「流産」で入院したというのは、胞状奇胎の事でしょう。そこで、「胞状奇胎 治療法」でAIに尋ねました。(回答は以下)
「胞状奇胎の治療は、まず子宮内容除去手術で異常な組織を取り除き、その後、血中hCG値を測定して経過観察します…(中略)…治療終了後も最低1年間は定期的な検査と避妊が必要です」とのこと。
つまり、胞状奇胎でも再度の妊娠は可能。正常妊娠も期待できる。(=アの宮さんはJKGの実子の可能性あります。)が、再発予防のため、子宮内容摘出手術後、hCG値が陰性になるのを待ち(順調なら摘出手術後3-4月後)、さらに1年の避妊期間を置くことになりそうです。
従って、1963年3月に子宮内容摘出手術
1964年6-7月頃まで、あちらの営みはドクター・ストップの可能性大
もしこの期間に受胎したとすれば? 1965年11月に「赤ちゃんが生まれました」と御披露目したら「発育の良い大きな御子様」という感想になるのでは?
侍従は、畏れ多い御家にとり、不都合な記載を残したりしないでしょう。ドクター・ストップが開けた後に受胎した体で、諸事万端を取り仕切るのでは?いえ、全ては妄想です。
私が述べたいのは、あの宮さんはJKGの実子でも何ら不思議は無いという事です。
Kさん、朝比奈さん、ありがとうございます。さて、私は、
「昭和天皇実録 第14」に確認されたという、
「皇太子妃内着帯 昭和40年7月7日
皇太子妃着帯 昭和40年10月11日
皇孫誕生 昭和40年11月30日」
の記述と、既に周知となっている、出産直前期ピンヒール姿で運動会にお出になられている皇太子妃時代の美智子さまのお写真、そして明らかに人形を抱いて母親を演じておられる車中のお写真、更にその人形を抱えて運んでいる女官の写真、の激しい齟齬に違和感を覚え、昭和天皇実録についてAIに質問いたしました。
その回答は、『昭和天皇実録は昭和天皇ご逝去後に宮内庁が編纂したもので、昭和天皇が直接書かれたものではありません』とのことでした。
ここには皇后となられ権威の頂点に立って自信に満ち、宮内庁を「思うがままに操作」なさり始めた現上皇后のお姿が垣間見えはしないでしょうか。
『捏造』…悠仁さんの盗作作文、ビク博士が関心を抱かれたトンボ論文の不正な香り…それらの原点は、あのお方の内面の異常さにあるのでは、と思えてなりません。
ご実子でないご次男の公的記録はこれ以前にはなく、どうしても残しておきたい記述だったのかもしれません・・・が、
歴史捏造は罪です。
Kさん、お忙しい中、調べていただきありがとうございました。よくわかりました。昭和天皇が亡くなられた日を変更する必要もなかったですね。
コメント欄に時々、書かれてあったので本当かな?と思い尋ねた次第です。美智子さまの流産も書かれていたのですね。それからどれだけ経ってか忘れましたが美智子さまは子宮摘出手術をされました。
でも、陛下の(小学校でしたか)運動会でハイヒールを履いて参加されてた写真を見ると本当に妊娠されてたのか疑いたくなります。流産経験あるなら余計に気を付けると思うのにハイヒール?不思議です。
そうそう、軽井沢には昨年骨折されたからかぺたんこの靴でしたね。珍しいと思ってしまいました。
kさんありがとうございました。侍従日記に少しのヒントでもあれば…と思い、お尋ねしましたが対象期間外でしたね。大変お手数おかけしました。
Kさん、丁寧なご返信をありがとうございました。
自分ではない他の方のご質問およびご回答から、初めて知ったこともあり、とても参考になりました。
Kさんには貴重なお時間を割いていただき感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Kさん、調べてくださり、ありがとうございました。
>今後も資料を読んでいきます。何かわかりましたら、ぜひ、ご報告させていただければと思います。
とても頼もしいありがたいお言葉。今後もよろしくお願いします。
Kさん、此の度は御丁寧に回答くださり心より感謝致します。
千玄室さんが逝去されて間もないので不謹慎と思いましたが、皇室に関わる納得いかない状態が続いて、日を追うごとに事案が増えていますよね。此の不可解な状況を明かさないと日本が簒奪されてしまうと危機感が消えません。
今後も懸念事項がありましたら、エトセトラジャパンさんのコメント欄をお借りして御教示ください。宜しくお願い致します。
愛子皇太子殿下の実現に向けて御一緒に頑張りましょう。皇弥栄