紀子さまの話題の曾祖父・池田四郎氏 1920年代後半に関西に渡った大勢の韓国人の恩人だった
先にこちらで、『伝記物語の出版が話題の紀子さま曾祖父 大阪の著名人なのに、なぜ「人物事典」に掲載されていない…?』という記事を書いたところ、予想外に大きな反響を頂いた。
警察官僚を経て第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監を務められたという紀子さまの曾祖父・池上四郎氏(1857~1929年)。天王寺動物園の生みの親で、市営地下鉄の計画から予算獲得まで関わるなど大阪の発展と都市機能の整備に大きく寄与し、銅像まで建てられた偉大な御方だというが、なぜか日本の「人物事典」に記載されていないことがわかったのだ。
池田氏に関して青森県の学者さんが伝記を出版することになり、そのおかげで色々と調べることができて本当によかった。Xで相互フォロー中の歴女・コードネーム369@作業中ROM(@lalalajavi39)さんが送ってくださった追加の情報を紐解きながら、ある事実についてお知らせしてみたいと思う。
◆池上氏についておさらい
池上四郎氏の経歴や功績について、Wikipediaの情報をまとめてみるとこうなる。
1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれる。
富山県警察署長
京都府警部
千葉県警察部長
兵庫県警察部長
大阪府警察部長などを歴任
1913年に大阪市長に就任(3期10年)。
電気・水道事業、大阪港建設など都市基盤を整備。
1915年に天王寺動物園を開園
1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設。
大阪電灯株式会社より事業買収で電灯供給事業を市営化。
市庁舎を新築
博物館、図書館、病院を整備
1927年、当時日本が植民地政策を推し進めていた朝鮮半島に「朝鮮総督府政務総監」として赴任
1929年(昭和4年)病死
ここまで偉大な御方ながら、1973年版・朝日新聞社『現代人物事典』と1990年版・同『現代日本・朝日人物事典』のいずれにおいても、「い~」のページに池上四郎氏についての記載はない。先の記事では、そこまでをお伝えしていた。
だが、池上氏の日本における様々な功績はむしろ明治~大正時代に集中しており、国立国会図書館デジタルコレクションの『大正人名辞典3版』においてはしっかりと称えられていることがわかった。

そうなると、池上四郎氏が日本統治時代の朝鮮における統治機関の朝鮮総督府に「朝鮮総督府政務総監」として勤めていた、1927年(昭和2年)12月から1929年4月までのことが気になる。
◆「朝鮮総督府政務総監」もいろいろ
Wikipediaによると、朝鮮総督府は最初から多くの朝鮮人官僚を抱えていたという。さらに朝鮮総督府政務総監については、「軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、主に官僚や政治家が任命された。前半期は内務省(特に警察畑)出身者の起用が目立ったが、後半期は他省出身者や朝鮮総督府生え抜きの人物も登用された」とある。
そこでコードネーム369@作業中ROMさんは、朝鮮総督府政務総監を務めた方で朝日新聞社1990年版『現代日本・人物事典』に掲載されて「いる人」「いない人」を確認してくださった。
1926年(昭和元年)以降の資料が反映されているといい、第5代目の湯浅倉平氏から先についてのみでいうと、人物事典に掲載されていなかったのは池上四郎氏(6代目)、大野緑一郎氏(9代目)、遠藤柳作氏(11代目)の3名だった。
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1 山縣伊三郎 1910年10月 1919年8月
2 水野錬太郎 1919年8月 1922年6月
3 有吉忠一 1922年6月 1924年7月
4 下岡忠治 1924年7月 1925年11月
5 湯浅倉平 1925年11月 1927年12月
6 池上四郎 1927年12月 1929年4月
7 児玉秀雄 1929年4月 1931年6月
8 今井田清徳 1931年6月 1936年8月
9 大野緑一郎 1936年8月 1942年5月
10 田中武雄 1942年5月 1944年7月
11 遠藤柳作 1944年7月 1945年10月
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経歴や功績は大変ご立派であるにもかかわらず、この3名は何が原因で「掲載は見合わせましょう」となってしまったのか。そのあたり、お一人ずつWikipediaを頼りに探ってみることにした。
◆大野緑一郎氏ほどの御方がなぜ…
大野 緑一郎氏は故・橋本龍太郎元首相の外祖父。衆議院議員・橋本岳の曾祖父。日本の内務官僚で弁護士。第37代警視総監、元徳島県知事、元岐阜県知事。朝鮮総督府政務総監。内務省地方局長等々。大変ご立派な経歴でいらっしゃる。
Wikipediaによれば、朝鮮総督府政務総監時代(1936年8月~1942年5月)、大野氏は「創氏改名」を推進したという。
創氏改名とは、1939年(昭和14年)の制令十九号により、「本籍地を朝鮮に有する日本臣民」に対し、戸籍に「姓」と「本貫」を残したまま、新たに世帯の「氏」も創設させ、また希望者には有料で「名」を改めることを認めた政策のことだという。
1910年日韓併合以降から、一部の朝鮮人が日本内地風の姓名を希望し、届け出をするようになった。そのため、当時の朝鮮総督府は翌1911年11月1日から「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」(明治44年朝鮮総督府令第124号)に、より、改称を警務総長又は各道警務部長の許可制とし、その運用で「内地人ニ紛ハシキ姓名(内地人風の紛らわしい姓名)」への改称には厳しい制限をしていた。それを転換し、戸籍に「姓」と「本貫」を残したまま、新たに世帯の「氏」も好きな名称のを創設させ、希望者には有料で「名」の変更を認めたのが、1939年(昭和14年)に実施された創氏改名制度である。
一方「改名」は強制ではなく、希望者が任意で申請するものであった。従来、姓名の変更には裁判所の許可が必要であった。これを届出のみで変更できるよう、創氏と同時に法制化されたものが改名である。実施期間の定めは無く、そのため設定創氏の届出期間経過後も、朝鮮式の名を比較的簡易な届出で日本名に改名することが可能になった。また設定創氏した者が、日本式の氏に合うよう下の名前を改名することができた。改名は任意で希望者のみであるため、提出書類は「改名許可願書」と題され、また当時としては安くない1人50銭の手数料が必要であった。創氏と同時に改名した者の割合は9.6%であった。
水野直樹によると、内鮮一体の立場から朝鮮人に日本式氏名を名乗らせることに積極的な朝鮮総督府に対し、警務局は治安問題等から創氏改名に反対しており、それは日本人と朝鮮人との識別ができなくなるという理由からで、そのような反対意見に配慮する形で、「朝鮮的」な名を残すために改名については許可制としたのではないかとしている。
◆遠藤柳作氏ほどの御方がなぜ…
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく)氏は日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省を経て朝鮮総督府政務総監に(1944年7月~1945年10月)。神奈川県・愛知県・青森県・三重県の知事を歴任。満洲国国務院総務庁長。貴族院議員。敗戦後、公職追放になったが、解除後1952年、武蔵野銀行の初代頭取に。衆議院議員。参議院議員。
1945年、日本の敗戦による赴任地の朝鮮での戦後処理を見越し、朝鮮人の独立運動家である呂運亨と行政権移譲などの事前交渉を水面下で行い、8月15日に昭和天皇が玉音放送でポツダム宣言受諾による降伏を(朝鮮人を含む)日本国民に発表した当日の夜に呂らが朝鮮建国準備委員会を発足するのを支援したともされる。
朝鮮建国準備委員会は、1945年8月15日から9月7日までの連合軍軍政期に呂運亨などが中心となって朝鮮総督府から行政権を引き継ぐために作った組職。
◆池田四郎氏ほどの御方がなぜ…
池上氏は1927年12月から1929年4月まで、朝鮮総督府政務総監として韓国に暮らし、大土地所有制によって貧困化していた小作農を救済するため、小作法を制定するなどの救済政策を進めたとWikipediaにある。公平、平等を重んじる、やさしいお人柄だったのかもしれない。
実は、大野氏のところで触れた「創氏改名」は、1910年から一部の人々が日本内地風の姓名を希望するようになったことに端を発したもので、当初は警務総長又は各道警務部長の許可制だったとある。
まさに、その1910年の日韓併合をきっかけに、朝鮮の人々は日本内地風の姓名を得るなどして日本を目指した次第だが、ピークはなんと池上氏が赴任していた1920年代後半から30年代とのこと。毎年8~15万人もの人が日本に渡ってきたというから、池上氏は彼らにしてみれば「日本に暮らすチャンスを与えてくれた恩人」ということになるだろう。
ちなみに現在、いわゆる在日朝鮮人が多く暮らしているのは、1位東京都、2位大阪府、3位兵庫県とのこと。池上氏が兵庫県警察部長、大阪府警察部長などを経験していたご縁から、多くの朝鮮の人が日本へ渡った後はそのあたりで暮らすことを考えたのかもしれない。
こうしたことを考えると、池上氏の孫で被差別部落など人権問題を研究しておられた川嶋辰彦氏や曾孫の紀子さまも、彼らにとっては「足を向けて寝ることはできない」存在に違いない。
(朝比奈ゆかり/エトセトラ)
画像および参考:
・『Wikipedia』池上四郎_(大阪市長)
・『Wikipedia』朝鮮総督府政務総監
・『Wikipedia』朝鮮総督府
・『Wikipedia』大野緑一郎
・『Wikipedia』創氏改名
・『Wikipedia』遠藤柳作
・『Wikipedia』朝鮮建国準備委員会
・『国立国会図書館デジタルコレクション』大正人名辞典3版
・『Wikipedia』川嶋辰彦
・『エトセトラ・ジャパン』超著名人なのに、なぜ日本の「人物事典」に掲載されていない…?? 伝記物語の出版が話題の紀子さま曾祖父の謎
>大阪万博開会式で、名誉総裁秋篠宮さまはボタンのスイッチを押すだけだった。
こんな名誉総裁見たことも聞いたこともない。
必要ないですよ。
なんで居るのか?
↑
それでいて名誉総裁は2千万円の報酬とか、、
秋篠宮殿下は「役立たず」と言われながらも、今度は教皇の御葬儀に参列、、
これにはお車代はどうなんだ??
教皇の御葬儀、天皇陛下に直系の成年皇族がおいでなのに、傍系を「名代」に遣わすような失態になるとは、まさに皇室典範の欠陥を証明していますね。
御簾の向こうに鎮座していた古の天皇とは時代が違うのです。
現在の天皇は国民統合の象徴の姿を国民に示し、国民に寄り添い、国民を慰撫し、外交儀礼、宮中祭祀を務め御自身を律して研鑽し続けなければ、国民に見透かされてしまいます。大変厳しいお務めだと思います。
帝王教育も象徴教育も授からず自由気ままに生きて、継承者となる努力も、自覚も矜持もまるであるようには見えない傍系の継承順位を「男」と言うだけで優先する皇室典範は欠陥法と言うわけです。この先もこの様な家系で継承すると言うのなら絵に描いたような「悪循環」ではありませんか?
「立法府の総意」に向けて自民党と立民党の妥協案が浮上
2025/04/26 「 高森明勅公式サイト」でご覧を、、
>皇族数の減少対策を巡る全政党·会派が一堂に会しての意見交換が、衆参正副議長の呼び掛けで
これまで続けられて来た。
それが“生煮え”のまま、一先ず打ち切られ、正副議長ら4者による意見の取りまとめに移った。
しかし、平行線を辿る自民党と立憲民主党が何とか合意できるラインが見えないままでは、
「取りまとめ案」を仕上げることは困難だ。
そこで、先ず自民党から妥協案が出て来た(共同通信、4月24日配信)。
(詳しくは本文で)
皇室会議で決めるって…
2025年04月26日「ブログ、ブルーサファイア」でご覧を、、
>皇族数確保策を巡り、結婚した女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案が浮上していることが26日、関係者への取材で分かった。自民党は慎重な立場で、対応が焦点。
>第一に国民の総意があまりにもなおざりにされています。
女性天皇賛成90%の総意を一体どう考えているのでしょう。
無視してよいとでも?
それではナチと同じ独裁国家ですね。
そして違憲です。具体的に言えば第一条「国民の総意」、第二条「世襲」、第十四条「門地による差別」に抵触しています。
(詳しくは本文で)