【皇室、徒然なるままに】第12話 瓦解する菊のカーテン(The chrysanthemum curtain is collapsing)中篇:その2 西村 泰一

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尊王論の物神化としての菊のカーテン《尊王思想が生んだ大日本帝国》

この中篇では、いわゆる「菊のカーテン(The Chrysanthemum curtain)」が、尊王論の残滓(ざんし)、あるいは昔流行ったマルクス主義的言い回しを用いるならば、物神化(fetishization)に他ならないことを論じる。

昭和17年、白馬にまたがる昭和天皇(画像は『ジャパン・アーカイブズ』のスクリーンショット)
昭和17年、白馬にまたがる昭和天皇(画像は『ジャパン・アーカイブズ』のスクリーンショット)

 

◆江戸末期の尊王論

― 尊皇攘夷運動 ― 

これについては『ジャパンナレッジ』に依って見ていこう。

尊王も攘夷も,幕藩体制に本来そなわった考え方であるが,幕末に外国船の来航が多くなり,鎖国の維持が危うくなったとき,幕藩体制の秩序を再強化するための政治理論として,尊王攘夷論が登場した。その支柱となったのは,徳川斉昭や藤田東湖が唱えた後期水戸学であった。

この尊王攘夷論にもとづく政治運動,すなわち尊王攘夷運動が台頭したのは,1858年(安政5)日米修好通商条約をめぐる条約勅許問題と,将軍継嗣問題とが政局の表面に浮かび上がった時期からである。ハリスと条約案を議了した幕府は同年初め,条約の勅許を得るために老中堀田正睦を上京させた。朝廷は攘夷を主張した多数の公卿の意見をいれて,幕府の要請を拒絶した。

これら公卿に,条約勅許がおこなわれないように説いたのは,将軍徳川家定の継嗣問題で井伊直弼と対立していた徳川斉昭,松平慶永(よしなが)など一橋派の雄藩大名であった。4月大老となった井伊は,6月には勅許を得られないまま条約に調印し,ついで将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))と定めた。

継嗣問題で敗れた斉昭や慶永は,井伊を失脚させるため違勅調印の責任を厳しく追及した。井伊の行為は尊王にも攘夷にも反する,というのが斉昭らの主張であった。これをきっかけに,水戸藩士をはじめ尊攘思想をもっていた志士や公卿が,いっせいに井伊の条約調印非難の運動をはじめ,やがて彼らがその中心となった。

尊王攘夷は,もろもろの思惑をもっておこなわれている諸運動を,幕政批判という点で一つに結集しうる理念であった。尊攘運動に対する井伊の弾圧は安政の大獄であったが,これはかえって運動を激化させる結果となった。

大獄の報復として60年(万延1)3月,尊攘派の水戸浪士らは井伊を桜田門外に殺害した。井伊の死後,幕府は和宮の将軍家茂への降嫁の発表や,両港(兵庫,新潟)・両都(江戸,大坂)の開港開市の延期交渉を諸外国とはじめるなど,尊攘運動の鎮静化をはかった。

しかし,さしたる効果を生まず,60年12月のアメリカ通訳官ヒュースケンの殺害,61年(文久1)5月の水戸藩士による東禅寺のイギリス公使館襲撃などを代表例とする外国人殺傷事件が多発し,62年1月には,公武合体策の推進者であった老中安藤信正が坂下門外で水戸浪士に襲われて負傷し,老中を辞した。

62年になると薩摩,長州,土佐の藩内にも尊攘派の勢力が強まり,これら3藩の志士は京都へ上り,実質上,朝廷の意思を左右するようになった。当時の尊攘派の理論的リーダーであった真木和泉をはじめ,平野国臣,清川八郎,田中河内介,有馬新七,田中謙助らが代表的な志士であった。同年3月,尊攘派の声望の高かった島津久光が,兵を率いて京都へ入った。

しかし彼は,幕政改革を通じて幕府を攘夷へ向かわせようという立場であったので,急進的な攘夷には反対し,尊攘挙兵を企てた有馬らを,4月,伏見の寺田屋で斬った。ついで5月,久光は勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸へ下り,幕府に攘夷貫徹のための幕政改革の実施を約束させた。

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ところが,この東下中に,京都では久坂玄瑞(くさかげんずい)・桂小五郎などの志士,三条実美(さねとみ)・姉小路公知(きんとも)などの公卿が中心となり,再び急進的な尊攘論が支配的となった。このため,京都へ戻った久光はなすすべもなく帰国し,同年後半には天誅(てんちゆう)の名の下に佐幕派へのテロが横行した。

10月,三条実美は幕府に攘夷の実行を促すための再度の勅使として,江戸へ赴いた。幕府はこの勅命に従うことを決定し,63年(文久3)将軍家茂は攘夷の上奏のために京都へ上り,3月,二条城に入った。この間朝廷では,長州藩尊攘派に支持された少壮公卿が,新設された国事御用掛,国事参政,国事寄人など朝廷の意思を決定する機関の主導権を握り,朝議を攘夷決行の方向に導いた。

孝明天皇の賀茂社,石清水社への攘夷祈願の行幸も,このような状況の中でおこなわれた。家茂は結局,63年5月10日から攘夷を実行する旨を,朝廷に誓約せざるをえなかった。5月10日になると,長州藩は下関で外国船を砲撃した。しかし幕府は依然として攘夷を実行しなかったので,尊攘派は天皇に圧力をかけた。その結果,攘夷親征のために大和行幸をおこなうとの詔勅が,8月13日に出た。

このような急進的な長州藩尊攘派に対する公武合体派の巻返しが,「文久3年8月18日の政変」である。孝明天皇と朝彦親王が計画し,薩摩・会津両藩が支援したこのクーデターで,長州藩尊攘派とそれに同調する公卿は京都を追われた。尊攘派は,政変と時を同じくして大和五条に,10月には生野に挙兵したが,直ちに鎮圧された。8月18日の政変を境に,尊王攘夷運動は中央政局への影響力を失ってしまったのである。

京都での勢力回復を目ざした長州藩は,翌64年(元治1)7月,禁門の変を戦って敗れ,ここに尊王攘夷運動はその政治的生命を絶たれた。尊攘派の拠点であった長州藩自体が,朝敵となって尊王の大義名分を失ったうえに,禁門の変の直後の8月に,4国連合艦隊の下関砲撃を受けて,攘夷に現実性がないことを実地に体験したからである。

尊王攘夷運動は,外国と条約を結んだ幕府を批判しつつ,幕藩体制を旧来の姿に保つことを目的とした政治運動であったが,64年の後半からは,これに代わって,幕藩権力の頂点に立つ幕府を倒そうとする倒幕運動がおこった。その拠点もまた長州藩であった。

江戸末期の尊王攘夷運動はこうして潰えるのであるが、1930年代に入って形を変えて復活する。「中篇その3」で述べる昭和維新の基本的な考え方は、政治がうまく行かないのは、天皇の聖なる親政を奸臣の政治家や財閥が妨げているからであり、天皇の親政の本来の形にすればすべてうまく行くという、政治思想というよりは最早宗教と言うべき信条であった。後醍醐天皇が聞いたら、おそらく涙を流して喜んだことであろう。

これも「中篇その3」で述べる、大東亜共栄圏が目指したものは弁証法的発展を遂げた攘夷であり、当時欧米の植民地であったアジアを開放し、大日本帝国を頂点にいただく共栄圏を目指したものであった。

 

◆尊王論が生んだ大日本帝国

― 律令制の復活 ― 

天皇中心の国家体制を、お隣の中国を模して作ろうとしたのが律令体制であるが、これが実効的に機能したのは7世紀末から9世紀初頭くらいまでと言われている。これが明治維新で復活するのであるが、そのあたりを『Wikipedia』に依って見てみたい。

形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた。

王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族・公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。
そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制が採られ、さらに翌年7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。明治2年の主な組織と役職者は次の通りである。

輔相 三条実美
議定 岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正
参与 東久世通禧、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助

そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制が採られた。具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省に改組したりする幾多の改変を必要とし、安定しなかった。

また立法府である左院・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。

 

― 福沢諭吉の皇室観 ― 

“学問の勧め”や”文明論之概略”で名高い啓蒙思想家、福沢諭吉は、慶應義塾を創立したことでも知られているが、彼はまた早稲田大学の創立者・大隈重信と仲が良かったこともあり、早稲田大学の創立にも関わっている。ほかにも専修大学、一橋大学の創立にも、関わっていたとされている。

諸外国を見てまわった福沢諭吉は、それまでの日本にはなかった「中央銀行を置く」という概念を持ち帰り、日本に紹介したと言われている。その縁なのであろう、彼は現在1万円札の顔となっている。福沢は保険の制度を日本に持ち帰っている。彼の教え子であった阿部泰蔵が、国内初の生命保険会社を立ち上げているが、この保険に真っ先に加入し、日本ではじめての生命保険加入者となったのも福沢である。

福沢諭吉は、いい意味でも悪い意味でも、根っからの実用主義(pragamatist)で、情勢の変化に応じて、その皇室観もかなり揺れるのであるが、そのあたりについては、是非とも碓井岑夫氏による『福沢諭吉の教育論と天皇観』の秀逸な論説をご覧いただきたい。秋篠宮や悠仁くんあたりにも、ぜひ読んでいただきたいものである。

 

― 伊藤博文の皇室観 ―

内閣制度は1884年に作られているが、伊藤博文は44歳で初代総理大臣を務め、その後3度も総理大臣になっている。この総理大臣に44歳で初めて就任したという記録は、未だ破られていない。明治維新が1869年で、最初の15年間は大久保利通などの明治維新の大功労者が実権を握っていた。伊藤にお鉢が回ってくるのは、大久保死後のことである。

明治10年代、政権中枢の最大の難問は明治天皇との関係だった。明治天皇は、藩閥主流とは一定の距離を置こうとしていた。明治天皇は伊藤には好意を寄せていたが、伊藤が憲法調査のために訪れていた欧州から帰国し、立憲制の導入と期を一にして宮中改革を提唱すると、保守的な天皇は、伊藤が宮中を過度に洋風にするのではないかと疑心暗鬼に陥り、伊藤の宮内卿就任を容易には許さなかった。

なんとか宮内卿になった後も、伊藤が欧州王室に範をとって華族制度の創設や宮内省改革など積極的に宮中改革を行い、天皇に欧州流の”立憲君主制”を認めさせようとすると、両者の間にただならぬ溝(an extraordinary rift)を生じることとなった。

伊藤は、内閣制度を機能させ、立憲制の導入や宮中改革を円滑に進めるためには、天皇を立憲君主化するだけでなく、天皇との間に揺るぎない信頼関係を築くことが、必要不可欠であると拝察した。これを目指して、伊藤は総理大臣に加えて宮内大臣を兼任し、天皇の不信感にも十分に配慮しながら、天皇と政府の間のよき調停者(arbitrator)として立ち振るまった。

その結果、皇后の協力も相まって、天皇も次第に伊藤に深い信頼を寄せるようになり、1987年頃までに、伊藤を仲介に、天皇と藩閥政府との間に緊密な連携が確立した。伊藤は、天皇の恣意や側近政治を抑制して、内閣を中心に政治が営まれる仕組みを構築し、天皇を内閣の輔弼を前提とした受動的君主たらしめんとした。それが所謂立憲君主制である。

しかし、伊藤は単に天皇権力を制度化して、形式的な裁可者に押し留めようとしたわけではなく、天皇にある種の大権を残しておき、これを積極的に政治利用しようとした。例えば、第4議会において、軍艦建造費を巡って政府と議会が対立し、にっちもさっちも行かなくなった折には、明治天皇による”和協の詔勅”で局面を打開している。

この天皇大権の政治利用というやり方は、伊藤のような、とても優れた政治家によって用いられるのなら、何ら問題はないのであるが、たとえば東條英機のような、権力欲だけは他者の追随を許さないが、政治家としては凡庸極まりない者によって行使されると、とても危険であることは、戦前の日本の歴史が如実に示している。

伊藤博文が、最近よく話題になる女性天皇等についてどう考えていたかについては、『文春オンライン』に掲載された興味深い論説を御覧いただきたい。また伊藤が安重根に謀殺された折の明治天皇の反応については、『現代ビジネス』の記事を御覧いただきたい。

 

― 明治天皇 ―

孝明天皇の第2皇子で、母は側室の中山慶子である。数名の側室を持ち、親王、内親王はすべて側室から生まれている。1920年に東京に明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮が建てられている。

明治天皇が無言で表情すら崩さなかったことは、有名な話であるが、極端な攘夷論者で感情の起伏が激しかった孝明天皇と、見事な対照をなす。幼名を祐宮(さちのみや)といったが、慶応3年(1867年)、満14歳で天皇となっている。”五箇条の御誓文”の宣布や即位礼は京都御所内の紫宸殿で執り行われている。

慶応4年7月17日(新暦換算:1868年9月3日)、明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸の地で政務を執ることと、それに伴って江戸を東京とすることを宣言している。同年10月13日(新暦11月26日に京都から江戸への東幸を行ったが、3300人が随行したと言われ、錦絵の主題となっている。

1871年に天皇の教育を目的とする侍読(1875年に侍講と改称)という制度が作られ、元田永孚(もとだながざね)が漢学担当の侍読になると、天皇は彼から強い思想的影響を受けるようになる。

元田は論語や書経をもとに、中国の古代の聖人を理想とした教育を明治天皇に施している。しかし、この儒教的な天皇親政路線は、伊藤博文や岩倉具視の強い反対にあい、1880年代に入ると、天皇は一転して、伊藤が推す立憲君主への道を歩むことになる。天皇もなかなか大変である。

昭和天皇の一つ年下の秩父宮は、晩年に認めたエッセイのなかで、明治天皇を”こわい”そして”おそろしい”存在だったとし、毎年三回、春秋と誕生日には参内していたが、ついに一度も祖父明治天皇の肉声を聞くことはなかったとしている。

 

― 乃木希典の殉死 ―

乃木希典は少将として、日清戦争に従軍し旅順港を1日で陥落させたほか、中将となった後は台湾総督として賄賂が蔓延っていた役人たちの官紀粛正に努めている。

そして明治37(1904)年、日露戦争が勃発すると、最初の剣が峰である旅順攻略で大将として陣頭指揮を執ることになるのであるが、旅順要塞の攻略は熾烈を極めている。ロシア軍は旅順を奪った後、世界にも類のない大要塞を築いており、日本の将兵たちの決死の正面突撃も、敵の十字砲火には全く歯が立たず、瞬く間に一帯は死体の山となっている。

開戦以来、乃木大将はほとんど睡眠を取ることなく、厳しい冬も暖房のオンドルは使わず、食事も兵士と同じものを食べて前線の兵士の苦痛を一緒に味わおうとしている。一方、内地からは乃木大将の指導力について激しい非難や更迭を求める声が相次いでいる。

しかし、「それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう」と真っ向から更迭に反対し、大将をかばわれたのは明治天皇で、その深い御心を知った乃木大将は「一将軍にすぎない自分を、これほどまでに思ってくださるとは」と感激し、自らを奮い立たせる。いまにも兵力が尽きんとする中、戦法を要塞攻撃から203高地の総攻撃に切り替え、激戦の末、ついに旅順を陥落させている。

旅順攻略はなんとか勝利したが、155日間の戦いで5万9,400名もの死傷者(うち戦死者1万5,400名)を出している。日本国民から凱旋将軍として迎えられながらも、明治天皇に拝謁した乃木大将は涙ながらに「この際、割腹してその罪を詫びたい」と訴えている。

明治天皇はその居た堪れない思いを察しながらも、「いまは死ぬべき時ではない。死ぬならば、私が世を去ってからにしなさい」と労われている。乃木大将が一人黙々と全国の遺族と傷病兵を見舞う日々は、ここから始まっている。

そして明治天皇は、教育が華美に流れないようにとの願いを込めて、秋篠宮家が毛嫌いする学習院長に乃木大将を任命されている。ここでも乃木大将は明治天皇の御恩に報いるべく、寄宿舎で院生と寝食をともにし、銃剣や「四書五経」の音読に励む時が何よりの楽しみだと語っている。

明治天皇が崩御されたのは明治45(1912)年7月30日のことである。そして陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪の礼が執り行われた9月13日、乃木希典大将は静子夫人とともに明治天皇に殉じて自刃を遂げている。享年62歳。その忠誠心に心を打たれた国民が乃木邸を訪れるようになり、創建されたのが乃木神社である。

 

― 大正天皇 ― 

大正天皇は1879年8月31日に、東京の青山御所で生まれている。第3皇子で、唯一生き残った男子となっている。生まれた時に全身に発疹があり、髄膜炎と診断されるなど、とにかく病気がちで、1890年代にはその静養を目的として、沼津、葉山、日光に御用邸が建てられている。

1887年に通常よりも遅れて学習院に入学されているが、結局勉強についていけず、1894年に中退されている。1912年7月、明治天皇の死去とともに、践祚(せんそ)されている。大正天皇は、桂太郎のような老獪な政治家にはうまく利用され、明治天皇を理想とする山県有朋や山本権兵衛には面従腹背の態度をとらざるを得ず、御用邸が心の休まる唯一の場所だった。

ただ、政務は大正天皇の健康を蝕んでいき、1921年、当時皇太子であった昭和天皇は摂政となり、同時に宮内省から「天皇の外見的症状は、すべて幼少期の脳病に端を発する”御脳力の衰退”による」といった内容の発表がなされた。1925年には、脳動脈軟化症(脳梗塞)が認められ、1926年8月には葉山御用邸に滞在されることとなるが、結局東京にもどることのないまま、同年12月25日に47歳で逝去されている。

なぜかはうまく説明できないが、大正天皇と秋篠宮の長男である悠仁君が、私の頭のなかでは妙にオーバーラップしてくるということを、最後に添えさせていただきたいと思う。万が一にも悠仁君が天皇ということになれば、摂政を確かな方、例えば敬宮愛子さまにお願いすることを考えておかねばなるまい。日本初の女性天皇である推古天皇は、聖徳太子の摂政と対になって始めて成立したことを忘れてはならない。悠仁君を天皇にというなら、”令和の聖徳太子” と巷間囁かれる愛子さまの摂政と対にして考えることが不可避である。

 

― 御真影 ― 

御真影(ごしんえい、御眞影)とは、天皇の肖像写真や肖像画を敬って指す言葉である。戦前の日本では、神社の御神体と同じくらい丁重に扱われた。少し『Wikipedia』で見てみよう。

1873年(明治6年)に奈良県知事四条隆平が県庁に掲げるため、天皇の肖像写真の下賜を具申したことがきっかけとなり、各府県が次々と同様の請願をはじめた。教育現場に本格的に下賜されるようになったのは1890年代からであり、教育現場に配布された御真影は天皇と同一視され、最大限の敬意をもって取り扱われるようになった。

1887年(明治20年)9月、宮内省は、御真影を、沖縄県尋常師範学校へ下付(府県立学校への下付の初め)。1889年(明治22年)12月19日、文部省は、御真影を(それまで官立・府県立学校のみだったのを)高等小学校へも下付する旨府県に通知した。1891年11月17日、文部省は、下付された御真影と教育勅語謄本とを、校内の一定の場所に「最モ尊重ニ奉置」するよう訓令した(奉安庫・奉安殿の設置が始まる)。

1928年(昭和3年)10月1日、翌2日、昭和に入ってから初となる御真影の伝達が行われた。総数16,338組が宮内省から文部省へ、さらに各府県の代表者を通じて全国の小中学校に下賜されている。

色々と、御真影に纏わる事件、事故も起きている。1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って割腹自殺するという事件が起きている。

同じ長野県では1921年(大正10年)に埴科郡南条小学校(現在の坂城町立南条小学校)が火災に遭った際にも校長が御真影を持ち出そうとして焼死する事件も起きている。 さらに、1933年(昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)が火災に遭い、御真影が焼けてしまった際にも当時の校長が割腹自殺をした。

紛失を防ぐため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。1935年(昭和10年)、福島県では小学校の奉安殿から御真影が盗まれ、身代金として 800円を校長に要求する事件が発生した。後日、男は不敬罪および恐喝罪の疑いで逮捕され、御真影は取り戻された。

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★「尊王論の物象化としての菊のカーテン」これまでの内容と今後のご案内

第11話・中篇その1=王政復古と尊王思想
【建武の新政ー失敗した王政復古】
【江戸期の尊王論】
― 朱子学 ―
― 水戸学 ―
― 浅見絅斎 ―
― 光格天皇 ―

第13話・中篇その3=暴走する大日本帝国
― 不敬罪 ―
― 昭和天皇 ―
― 現人神 ―
― 昭和維新 ―
― 昭和維新の思想と天皇観 ―
― 近衛文麿 ―
― 東條英機 ―
― 昭和天皇の戦争指導 ―
― 大東亜共栄圏 ―

とても勉強になる、充実した内容となっております。是非ともお読みください!

(理学博士:西村泰一/編集:エトセトラ)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。

 

【解説】
日中戦争(支那事変)が勃発し、1939年、大日本雄辯會講談社(現・講談社)は陸軍省と提携し、「戦地に赴く出征兵士を見送り、軍隊に入営する兵士を励ますための軍歌を」と歌詞と曲を国民から広く公募。128,592件の応募のなかから大日本帝国が選び、誕生した軍歌である。

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『ジャパン・アーカイブズ』【1941年】馬(昭和16年)▷年頭の陸軍始の天皇の白馬

『ジャパンナレッジ』尊皇攘夷運動

『Wikipedia』明治維新

『文春オンライン』愛子さまか、悠仁さまか 伊藤博文があっさり“女帝容認”説を手放した理由〈皇統をめぐる争いによる国の乱れを危惧〉

『現代ビジネス』天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」

『東京都立大学機関リポジトリ みやこ鳥』福沢諭吉の教育論と天皇観(II 日本近代史と教育) ― 碓井岑夫

『Wikipedia』御真影

『YouTube』hiro kawanaka ― 出征兵士を送る歌(再編集)