【YOUR VOICE】皇室が “ネタ” になる時代 ―― 象徴天皇制の静かな危機

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ここ数年、私は皇室を取り巻く空気がずいぶん変わったと感じています。

私はプロの皇室研究者でも記者でもありませんが、いち国民としての実感として、皇室の扱われ方が、良くも悪くも大きく変わってきたように感じています。。

テレビでもSNSでも、皇室の話題が以前よりずっと増えている。しかしその増え方が、どこかおかしい。それは「関心が高まった」というより、皇室が 「コンテンツとして消費されはじめた」という感覚です。

ここでいう「コンテンツ化」とは、単に皇室がニュースになる、という意味ではありません。皇室が、メディアのPV(ページビュー)競争やSNSの話題消費のための “情報商品”として扱われる現象全体を指します。さらに、画像の切り抜きや煽り文句など、軽い娯楽として消費されてしまう状態も含みます。

皇室は本来、「祈り」と「象徴」の役割を担う存在であり、娯楽の対象ではありません。喜劇でも悲劇でも、視聴率を稼ぐ材料でもない。ところが今は、その扱われ方が大きく変わりつつあると感じます。

 

◆ 皇室が「語られる」のではなく、「消費される」ようになった

敬宮さまのラオス訪問が、日本でも海外でも注目されたことは、私自身、とても嬉しく感じました。国際社会で示された敬宮さまの誠実さ、落ち着いた所作、温かい笑顔は、皇室の象徴性を改めて感じさせるものでした。

また、国民が敬宮さまに敬意を抱き、皇室への関心が高まることは、本来とても健全なことだと思います。

しかし問題はここからです。

この健全な関心としての人気と、メディアが数字のために人気に乗っかる “商品” としての人気は、まったく別物です。SNSでは、断片的なカットだけが拡散され、テレビでは「バズるシーン」だけが切り取られ、WEB上ではPV(ページビュー)稼ぎの煽り見出しが並ぶ。

このとき皇室は、もはや「象徴」ではありません。“消費される素材”になってしまっている。

皇室に自然に寄せられる敬意と、メディアの商売のための消費的扱いは、同じ「人気」という言葉でも中身がまったく違うのです。

 

◆ 皇室の軽視は、皇室の批判とは違う

私は、「皇室を批判するな」と言いたいのではありません。むしろ、皇室を支える制度・宮内庁の運営・政治の関与・報道の偏りなど、本来批判されるべき構造は、むしろ正当に批判されるべきだと考えています。

問題は、皇室が軽く扱われることそのものです。象徴は、軽く扱われた瞬間に象徴性を失います。それがどれほど深刻な意味を持つのかは、ほとんど語られていません。

 

◆ コンテンツ化された皇室は、社会の劣化を映す鏡

いま「皇室コンテンツ化」が最も進んでいる場は、実は YouTube だと思っています。
皇室を丁寧に扱い、制度と歴史を踏まえて情報を伝えようとするチャンネルもありますが、その一方で、皇室を“クリックを稼ぐ素材”として扱う動画が増えています。

タイトルで煽り、断片的な憶測をつなげ、皇室をまるで芸能ゴシップのように扱うチャンネルが少なくありません。再生数や広告収入を目的とした消費型コンテンツが量産され、皇室は軽く、浅く、矮小化されたまま拡散されていく。これは象徴への敬意とは程遠い姿です。

もちろん、すべての皇室系チャンネルがそうではありません。丁寧に検証し、皇室の歴史や象徴性を大切にしながら制作している人たちもいます。

問題は、この二種類が「同じ皇室コンテンツ」として混同されてしまい、結果として皇室そのものがネットの娯楽に引きずり降ろされてしまうことです。

皇室報道の劣化、SNSの炎上文化、政治の思惑、宮内庁の迷走。こうした空気が重なる中で、皇室が“売れるコンテンツ”として扱われ、乱暴に消費されつつあるように感じます。

しかしこれは、皇室の側の問題というより、私たちが作る社会の側が劣化している証拠ではないでしょうか。

皇室は国民の鏡です。鏡が曇って見えるとき、それは鏡のせいではなく、鏡を覗き込む側(国民)の問題です。

皇室のコンテンツ化は、敬意の喪失や、歴史の意味の薄まり、象徴の軽視、情報の雑な消費につながりかねない、そうした文化的な危うさを孕んでいるのではないかと感じています。

 

◆ 私は、国民の一人として「観察」を続ける

私はプロのライターでも学者でもありません。ただ一人の国民として、YouTube発信という形で、観察と記録を続けています。

チャンネルの中で風刺や比喩を用いるのは、皇室を笑うためではありません。皇室を取り巻く日本社会の歪みを浮かび上がらせるためです。

皇室を守るとは、何もかもを美化することではなく、誤魔化しに目をつぶらず、象徴が象徴であり続けられる環境を守ることだと思っています。

 

◆ 最後に

皇室がコンテンツとして軽く扱われる今の流れは、静かですが確実に象徴天皇制を揺るがす問題だと思います。敬宮さま人気という健全な関心と、メディアが数字を求めて行う娯楽的消費が混同されたとき、皇室は「国民の拠り所」から「ネットの話題」へと変わってしまう。

だからこそ、いま私たち国民が問われていると思うのです。

皇室を、どう扱うのか。
皇室を、「何として見る」のか。
象徴とは、私たちにとって何なのか。

この問いを避けて通れない時代が、すでに始まっているのではないでしょうか。

(皇室かわら版 もぐぞうさんより)

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