【皇室、徒然なるままに】第23話:母国語を喪失された秋篠宮妃紀子さま   西村 泰一

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「帰国子女だから、日本語があまり理解できないのでしょう。僕の話もわかっていないご様子なんですよ。」 

長女の夫・小室圭君にそう言われてしまったという秋篠宮妃の紀子さん。

今年5月に英国戴冠式で訪英された折には、日本の記者の日本語による問いかけに何も答えられず、ご主人の秋篠宮殿下に代返をお願いしておられた。

日本語の理解力がそんなことで、将来の皇后、そして天皇の母など目指せるのであろうか?

昨今は「ひきつった笑顔が怖い」などと言われるようになった紀子さま(画像はネットで拾ったもの)
昨今は「ひきつった笑顔が怖い」などと言われるようになった紀子さま(画像はネットで拾ったもの)

 

◆紀子さんの言語漫遊

まずは紀子さんの言語漫遊について、Wikipediaからまとめてみた。

1966年9月11日、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市駿河区で誕生。
父がペンシルベニア大学大学院に留学し、一家で米ペンシルベニア州へ。

 

1969年9月、同州フィラデルフィアのローズモント大学付属ローズモント・トゥリニティー・スクールに入園。自由学園幼児生活団通信グループを卒園。

 

1970年9月、同州のセント・メリーキンダーガーデンに入園。

 

1971年9月、フィラデルフィア市立ヘンリー・C・リー小学校に入学。

 

1973年、父が学習院大学助教授に就任し、一家で帰国。同年6月、静岡市立中田小学校の1年生に編入学。同年9月に新宿区立早稲田小学校に編入学。

 

1975年4月、 豊島区立目白小学校の3年生に編入。

 

1976年、学習院初等科へ編入。

 

1977年の1学期を終えた段階で、父がオーストリア・ニーダーエスターライヒ州ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所の主任研究員に迎えられ、2年間一家は同地で過ごす。同年8月、ウィーンのアメリカン・インターナショナルスクール・ウィーンに6年生として編入。英語のほかドイツ語も日常会話に困らない程になる。

 

1979年9月に日本へ帰国。

 

つまり生後6年間はアメリカで過ごし、日本に戻るものの10歳になるとオーストリアへ。2年間をインターナショナル・スクールに通ったおかげで、英語ばかりかドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなったが、12歳で日本に帰国という具合である。

しかも6歳で帰国した最初の1年間に、静岡から新宿、新宿から豊島区へと慌ただしく2度も転居、転校を経験している。子供の適応力というのは大分個人差があるが、大変だったと思わされる。

また、アメリカで過ごした最初の6年間は、家庭でも英語オンリーだったらしい。そうなると、当然ながら日本へ戻っても日本語は話せない。その後の数年で日本語を懸命に勉強したと思われるが、またオーストリアで2年過ごしたせいで、日本語が大分退化してしまったと聞く。その結果――。

 

◆紀子さんの日本語

令和の天皇ご一家を愛する人々に支持されている、内容が大変充実した『列外派星くず日記』というブログがある。そこに、紀子さんの変わった日本語使いがいくつか紹介されていた。

紀子さんは成人後に参加された第14回「東南アジア青年の船」で、朝の挨拶を「おはようございました」と言われたそうである。「ありがとうございました」からの類推なのかな。大学3年のときに出された年賀状も紹介されていたが、それは「新年あけましておめでとう存じます」で始まっている。

先だっての英国の戴冠式に出席された折、記者から戴冠式の感想を聞かれても10秒ほど沈黙してしまった紀子さん。あれは、若い頃の松田聖子に倣ってブリっ子を演じておられたわけではない。秋篠宮に助けを求められたのも、宜なるかなと思う次第である。

 

◆紀子さんも悲しきセミリンガル…何が問題なのか

今年4月、小室圭君は中学・高校とインターナショナル・スクールに通ったことで、「セミリンガルに陥ってしまった可能性が非常に高い」というお話をした。セミリンガルとはどういう状態を言い、どのような問題があるのか、少し復習してみたい。

立命館大学大学院・言語教育情報研究科の田浦 秀幸教授が、公益財団法人・私立大学退職金財団に寄稿された『避けるべきは「セミリンガル」。間違いだらけの語学教育』によると――。

母語で年齢相応の認知能力を習得することが大切だと田浦秀幸教授(画像は『私立大学退職金財団』のスクリーンショット)
母語で年齢相応の認知能力を習得することが大切だと田浦秀幸教授(画像は『私立大学退職金財団』のスクリーンショット)

 

他人の気持ちや他人の立場を十分に理解できるようになる年齢は、日本語しか話さない子どもで8~10歳くらい、バイリンガルの子どもだと3~5歳くらいとのこと。

例えば、日英バイリンガルの小学校4年生がいて、どちらか一つの言語でCALP(Cognitive Academic LanguageProficiency)と呼ばれる年齢相応の認知学習言語能力、年齢相応の国語力を身につけている場合、教科書で『ごんぎつね』を読むと、ごんの気持ちをきわめて上手に文章にするという。小学校低学年まで、バイリンガルの認知力はモノリンガルより優位と言えるそうだ。

年齢相応の読解力、文章力を目指してほしいと田浦秀幸教授(画像は『私立大学退職金財団』のスクリーンショット)
年齢相応の読解力、文章力を目指してほしいと田浦秀幸教授(画像は『私立大学退職金財団』のスクリーンショット)

 

ただし田浦先生によれば、二つの言語とも年齢相応のレベルで話し、かつ読めて書ける子どもというのは、実は世界中でも数%未満しかいないという。そこで、我が子にその域に達するよう求めるより、どちらか一つの言語だけでも、しっかりと年齢相応のCALPを獲得することの方が大切だとおっしゃっているのである。

「5歳の時に日本からアメリカに移住すると、2年もすれば英語をペラペラ話せるようになるでしょう。ところが、5歳までは日本語で育っていますから、CALPは5歳のままです」と田浦先生。そこで親が日本語でCALPの伸長を促す努力を続けてあげないと、「どちらの言語でも年齢相応に達していないセミリンガル」という不幸な状況に陥る可能性があると案じておられるのだ。

 

「人間は何歳になっても学習することでニューロン(脳神経細胞)の結びつきは変化していくので、学習すればするだけ、英語力が身につきます。逆に、5歳までアメリカで過ごし、英語がペラペラだったという子どもでも、その後日本に帰国して小学校に入り、英語を使わなくなると、あっという間に英語を話せなくなってしまいます」

 

「国連での議論を見ると、国家間の議論には高いCALP力が必要ですが、それぞれの代表者でアメリカ発音や英国発音をしている人は、多くはありません。みんな母国語訛りの英語ですが、国を代表して真剣に議論を闘わせていて、しっかりとコミュニケーションができています。これは高いCALP力がしっかり身についているからです」

 

「発音が上手かどうかは関係ありません。そのための基礎を学ぶのが中学・高校であり、この時期にしっかり文法や語彙を身につけることができれば、その後は努力次第でどうとでもなります」

 

親が日本人なら日本語は自然にできるようになる、アメリカに行けば英語を自然と覚えるだろうなどと安易に考えず、まずは母語でしっかりCALPを習得させてあげる。自分の子どもに年齢相応の言語能力、国語力があるかどうかを見極めることは、とても重要だそうだ。

 

◆母国語喪失の帰結

紀子さんの母国語は日本語ではないことが、これではっきりした。では英語が彼女の母国語になったのかというと、これも怪しい。6歳で米国から帰国した後、インターナショナル・スクールにでも行っておけばそうなったかと思われるが、そうではない。要するに彼女自家薬籠中の言語ないのである

小室圭君のところで、彼は英語も日本語も日常レベルにとどまるセミリンガルであろうという話をしたが、紀子さんの場合、戴冠式後に言葉が出てこなかったあのエピソードでもわかるように、日本語は日常レベルにすら達していない可能性がある。

 

日本語というと、私には個人的な思い入れもある。

私の家内の母国語はブルガリア語で、成人するまでソビエト共産圏にいたのでロシア語は堪能、そしてフランス語も話せた。結婚して最初の数年間、私たちは周囲に日本人がいなければフランス語を使い、日本人がいる場ではロシア語で会話した。

家内は日本に暮らすようになってから懸命に日本語を勉強し、その総仕上げとして、ブルガリア・サッカー界の英雄であるフリスト・ストイチコフの自叙伝を和訳している。

西村先生の奥様、西村留美阿奈さんが翻訳された『得点王の真実 ストイチコフ自伝』(画像は『Amzon』のスクリーンショット)
西村先生の奥様、西村留美阿奈さんが翻訳された『得点王の真実 ストイチコフ自伝』(画像は『Amazon』のスクリーンショット)

 

今では誰もが日本人だと思うこと間違いなしの高いレベルの会話をこなし、変な外国語訛がまったくない家内の日本語を聞いていると、難しい外国語を勉強するにあたって、年齢相応の認知学習言語能力、年齢相応の国語力を基本的に備えていることがいかに大切かがよくわかる。

ちなみに、私が京都大学に入学した1972年はまだ学生運動が盛んで、クラス全員が取る英語の授業になるとヘルメットを被って角材を持った学生がやってきて、クラス討論の時間にされてしまう。

何を議論するかというと、”日本帝国主義といかに戦うか”といった話題ばかりで、それが馬鹿らしくて英語は取らず、二か国語が必修であったためフランス語とロシア語を取っていた。大学受験のために英語は嫌というほど勉強していたため、英語の授業を捨てることに躊躇いはなかった。

 

◆頭ではなく子宮で考える…!?

さて紀子さんの話に戻るが、人間はものを考える時、通常は言語を用いて考えるのであるが、彼女の場合には母国語がないため、俗に言う「頭で考えずに子宮で考える」ことになってしまうのであろう。要するにライオンや虎と同じなのである。

だから表現が直截的になり、それゆえに”般若”とか有り難くない称号を頂戴することになるのである。また思考のレベルも極めて幼稚なものに留まり、一生懸命なのはわかるが、いつも事態を悪化させるようなことばかりなさるのである。

息子のアンポンタンに何人も家庭教師をつけておられると聞くが、紀子さんにも日本語の家庭教師が必要ということであれば、「私の家内を赤坂に派遣いたしましょうか?」とご提案申し上げたいものである。

 

紀子さんは、皇后になる日を指折り数えてお待ちかもしれないが、日本の皇后が「日本語ができない」なんて、あまりにも悪い冗談だという他ない。

ちょっと気持ちを切り替えることにして、第23話の締めくくりの1曲には美しい筝曲の『さくら』をどうぞ。

(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)

【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。

編集後記:
西村先生の奥様の西村留美阿奈さんという日本語名は、元のルミアナさんというお名前に先生が「勝手に」漢字を当てられたのだそうです。最初は喜んでおられたそうですが、日本語がよくわかるようになってからは「瑠美阿奈がよかった。なぜそれにしてくれなかったの?」と言われてしまったとか。そこで先生は「ちゃんとお留守番ができるようにと思って」と言って、奥様にさらに怒られてしまったそうです。

奥様の日本語がぐんぐんと上達されたのも、やはり西村先生がいっぱい話しかけ、ご指導されたからなのでしょう。夫婦の会話は本当に大事なものですね。
(朝比奈)
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『Wikipedia』文仁親王妃紀子

『列外派星くず日記』秋篠信者必見!紀子さま流話し方講座―これであなたも紀子さまになれる!―

『Amazon』得点王の真実 ストイチコフ自伝 単行本

『私立大学退職金財団』避けるべきは「セミリンガル」。間違いだらけの語学教育

『YouTube』筝曲 「さくら」箏独奏による主題と六つの変奏 木村園代 Japanese koto

『エトセトラ・ジャパン』【皇室、徒然なるままに】第3話 インターナショナルスクールを通して小室圭を読み解く