【皇室、徒然なるままに】第33 話 筑波大学と福田信之と統一教会が創る魔の三角形《その3》中国語教員の解雇事件 西村 泰一
1975年2月28日午前11時頃、東京都目黒区五本木町の学芸ハイツに住む筑波大学の中国語教員・梅韜(バイトウ)先生のもとへ、筑波大学の辰野千寿副学長からの電話が鳴った。用件は――。
【解雇】
辰野千寿副学長から自宅にかかってきた1本の電話。それは「来年度から先生にはお願いしないことになりました」という用件だった。梅先生も気の強い方で、「このような重大な問題は、電話ではなく正式な文書で通知するべきでしょう」とだけ言って、受話器をおいたそうだ。
それから1週間くらいして、三輪知雄学長名による1975年3月3日付の正式の解雇通知が梅先生のもとに届いた。文面は――。
「昭和49年5月以来、外国人教師として学生のため不便な本学で御努力いただき、誠に有難うございました。さて、昭和50年度は授業計画の都合により、契約を締結することができなくなりましたので、悪しからず御了承願います。」
【要望書】
中国語を担当する3人の日本人教師は、梅女史から事情を打ち明けられて大変驚き、女史の解雇を踏みとどまるよう、概略以下のような「要望書」を三輪学長に提出されている。
第一は、昨年の春、本学の要請にこたえ、それまでの一切の仕事を擲って就任されて以来、熱心に、しかも効率的に授業を行う傍ら、私どもの研究・教育に積極的に協力してくださり、本学における中国語の教育・研究の基礎づくりと発展に多大の貢献をしてくださいました。
従って、当然のことながら、私どもは昨秋よりそれまでの経験・成果を踏まえ、梅女史とともに、第二年度以降の授業計画を進めて参りましたので、今俄に女史を欠くと、計画の実施に大きな支障をきたすのみならず、これまでの梅女史の薫陶を受け、女史の学徳を慕って中国語の学習に励んできた多くの学生達に、深い痛手を与えることになります。
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第二は、昨年春、ロシア語関係は急には適当な人が見つかりにくいということで、49年度はその枠を暫定的に英語のほうで使用し、50年度分として増員が認められた場合、改めて関係者の間でその使用区分を協議することになりました。このことは現在の外国語センターでも了解済みのことであります。
ところが、本年は外国語センター外国語センター関係として、従来の5名に加えて4名、計9名の外国人専任講師の枠が認められたにも拘らず、これらはすべて英独仏露の4か国語関係で充当され、中国語関係は今年度は1名も認めない、ということが、この2月下旬の副学長会議で決められたと聞きました。
これでは、本年度は、中国語だけが一人の外国人専任教師もいないことになり、研究・教育に重大な支障をきたしますので、上記の「各国語最小限度1名は必要である」という原則を尊重し、梅女史の契約更新を実施していただきたいと存じます。
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第三に、外国語教育、特に数年間の継続学習を前提とする、いわゆる未修外国語の教育は、かなりの長期的な計画と実施とが不可欠の条件になります。そのことを十分考慮の上、招聘した外国人専任講師を、一年だけで、しかも新学年を目前にした時期に、「通告」という形で「再契約打ち切り」にすることは、国際的な信義を問われることになりかねません。
この「要望書」は、現代語・現代文化学系の牛島徳次教授、上野恵司講師、菱沼透講師の3名の連名で3月2日に提出された。だが、その翌日には梅女史のもとに学長名による解雇通知が発送されており、この「要望書」は完全に無視されたと言わざるをえない。
【解雇後日談 その一】
菱沼透講師は1975年1月、中国の南開大学から日本語教師としての招聘を受けている。学系会議でも承認され、学類長の許可も得て、4月に出発を予定していた。
ところが梅女史の解雇が決定した3月、小西甚一第一学群長から「あなたが抜けた後の授業計画を提出するように」と唐突に要求される。当初の予定では菱沼講師の抜けた穴は、梅女史を含む3人でなんとか遣り繰りすることになっていたが、梅女史の解雇によって、この穴は残る二人で埋めなければならない。
しかし、それは不可能だった。新学期が始まる4月になると、新しく学類長になった茂木氏から「授業計画が杜撰。あなたの出張は認められない」と言われてしまう。梅女史を突然解雇し、授業計画を滅茶苦茶にした責任が大学側にあることは明白なのに、その責任を一講師に取れという。トンデモナイ大学もあったもんである。
これには菱沼講師も愛想が尽き、辞職を決意。「より自由の身になって、自分の仕事に打ち込みたい」という皮肉たっぷりの退職願を提出し、5月下旬に中国へと旅立った。(『朝日ジャーナル』
【解雇後日談 その二】
1975年春、新学期早々学生に配布された「昭和50年度開設授業科目表」には、梅女史が学務課に提出した通りのカリキュラムが表示されていて、担当者欄だけが空欄となっていた。このことは、大学当局が梅女史の解雇を慌ただしく決めたことを示している。
1975年5月6日および7日、梅女史は解雇などどこ吹く風とばかり、授業を行った。大学側は慌てて梅女史を呼び出し、「解雇された者に授業をされては困る」と釘を刺し、念には念をと梅女史の教室に「休講」と張り紙を出した。
5月13日には、「梅韜氏は昨年度末をもって契約期間満了となり、本年4月以降、本学の授業を担当していないので、お知らせします」と掲示板で告知したが、学生たちはこの解雇通告を受け入れず、梅先生にお願いして5月14日から週2回、大学宿舎の食堂を使って「自主講座」という形で講義を続けてもらっている。
すると5月21日、宿舎の管理を任されている筑波学都資金財団から「食堂での教育活動は困る」旨の横槍が入った。それを無視して講義に参加している学生に対しては、「言うことを聞かないと宿舎から追い出すぞ」と恫喝。一方の大学当局は、「自主講座」を無届け集会だとして解散を命じた。
いやはや、なんとも御大層な話である。
こうして梅女史の自主講座は筑波大学内から締め出されたが、梅女史と彼女を慕う30人あまりの学生たちは、5月下旬から土浦市内の町内会館を教室代わりにし、なおも自主講座を続けた。これに苛立った大学当局は、町内会館に大学職員や私服を送り込み、目を光らせた。
それだけでは満足しないのか、当局は町内会館を管理する役員に「大学はあの講座を認めていない。会館を教室として貸さないでほしい」と盛んに横槍を入れた。ここまでくると、もう狂っていると言わざるをえない。
【梅女史の授業】
梅女史の授業は1974年6月より、水曜と木曜の午前9時から始まった。当時はまだ教員宿舎ができていなかったので、都内に居を構える女史は水曜日の夜は学生宿舎に泊まり、食事は学生と一緒に食堂でとっておられた。
1学期は中国語の発音と中国の地理について指導され、7月に入ると夏休みに。9月から再度授業が始まると、学生たちは梅女史の周りに集まってきた。中国の教育問題について知りたがり、また中国の映画を見たいといった学生も出てきた。
梅女史はそんな学生を東京に連れて行って映画を見せてあげたり、また学内で上映なさったりしておられた。梅女史は単に中国語を教えるだけではなく、今日の中国の社会の様子を、映画や音楽といったものを通して伝えようと努力されていた。
【学生たちのアピール】
学外で発表されたものを一部引用しておく。
梅先生が筑波大学に就任されると聞いたとき、私達は不安と期待の入り混じった思いでした。教育の反動的再編としての所謂「先導的試行」として強引に開設されたこの大学で、果たして日本と中国の友好のための教育が実現できるのか、と訝ると同時にこのような立派な先生が就任され、教育にあたるということへの期待とが半々だったのです。
梅先生は中国語を教えるにあたって、まず学生の要望を聞き、そしてそれに基づいて、あらゆる手段をもって私達学生に生きた中国の言葉を教えてくれるのです。死んだ言葉ではなく、生き生きと発展する今日の中国の言葉、生きた中国語を教えてくれたのです。テープ・音楽・映画・語劇・ビデオレコーダー、何でも取り入れ、中国語の会話だけでなく、今日の中国の社会の様子をあらゆる方面から紹介し、私達学生の要求を満たしてくれるのです。このような先生だから、私達学生から大変信用され、慕われ、大いに中国語教育の実をあげられるだろうと期待していたのでした。
そこへ今回の事件です。やはり反動は反動でした。このように学生に慕われる梅先生、友好のための中国語を教えられる先生は、彼らにとって目の上のたん瘤だったに違いありません。筑波大学の実権を握るごく一部の反動派は、現在の日中友好運動の空前の高まり、そして筑波大学内部での友好の気運の高まりに慌てふためき、懸命に抑えつけようと動き出したのです。
【筑波大学の人事】
梅女史の解雇を含む外国人教員の雇用計画案は、教官人事の生殺与奪の実権を握る福田副学長を中心とする御前会議にかけられ、決定したものである。
東大や京大といった他大学では、中国語教師の採用や解雇といった人事は文学部教授会で決定される。ところが筑波大学は極端に中央集権的な組織で、人事は人事委員会総会という名の御前会議が握っている。
先程も述べたように、肝心の中国語担当の3人の日本人教師は、梅女史から打ち明けられて、初めて事実を知ることとなった。全く蚊帳の外、聾桟敷(つんぼさじき)におかれていたのである。
そして梅女史の後任としては、陸上自衛隊調査学校(現・陸上自衛隊情報学校)で中国語を指導なさっていた鈴木達也氏を講師として迎え入れている。
【福田はなぜ梅女史を解雇したのか?】
副学長の福田が、コチコチの反共主義者であることはよく知られている。ロシアも中国も社会主義国家であるが、1972年の国交正常化によりパンダが来たりして、日中友好のムードが蔓延したことは、福田の目にはものすごい脅威に映ったようである。
さらに、この頃の中国は文化大革命の真っ最中だった。「毛沢東語録」が世界中を席巻していた頃であったことも、福田の疑心暗鬼を増幅させたようである。そうした中で梅女史が学生に人気があるという事実は、猜疑心の強い福田を不安に陥れたようである。以下、参考までに日中国交正常化と文化大革命について復習しておく。
【日中国交正常化】
中国では1949年、大陸部を制圧した中華人民共和国が成立していたが、日本はアメリカに追随してそれを承認せず、台湾の中華民国政府を中国の正当な政権としていた。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発したことを受けて、アメリカは日本を西側陣営に組み込むため、戦後の日本の連合国との講和会議である1951年のサンフランシスコ講和会議を召集した。
しかし、それに中華人民共和国・中華民国のいずれも招待されなかったため、日中国交回復はなされなかった。同時に日米安全保障条約が締結され、翌年には日本は台湾政府との間で日華平和条約を締結。中国共産党政権下の中華人民共和国とは国交のない状態となった。
1950年代から民間貿易が始まり、1962年には政経分離の原則により日中貿易が進展していたが、東西冷戦下、ベトナム戦争などの影響もあって、日中間の国交正常化交渉が行われることはなかった。
長きにわたる放置の後、1971年のキッシンジャー国務長官の訪中、1972年2月21日のニクソン大統領の訪中は日本の頭越しに行われ、日本政府を大いに慌てさせた。
外交の遅れを取り戻すため、日中国交の回復を急ぐことにした田中内閣。1972年9月25日から30日まで、田中角栄総理大臣、大平正芳外務大臣、二階堂進官房長官らの一行が中国を訪れ、国交正常化交渉に臨んだ。
首脳の毛沢東・周恩来などと会談し、日中国交正常化に合意し、1972年9月29日に日中共同声明を発表している。日本側は過去の戦争責任を痛感、反省することを表明し、日中平和友好条約の締結をめざすこととなった。
これによって、「中華人民共和国」を中国唯一の政権と認めた日本。そこで台湾とは断交することになり、1952年に締結されていた日華平和条約は無効となっている。
さらに、日中共同声明で日中間の平和条約締結交渉に着手することとなったが、当時ソ連と鋭く対立していた中国側とは「覇権条項」に関する意見の相違で手間取り、1978年8月12日に日中平和友好条約がようやく締結された。
こうして終戦から33年目、講和のないまま正式な国交のなかった日本と中国は国交を回復し、最終的に戦争状態を終わらせたのだった。
【文化大革命】
中国のプロレタリア文化大革命(無産階級文化大革命、単に文化大革命、略して「文革」ともいう)は、中華人民共和国が建国からわずか17年後の1966年に始まり、ほぼ10年に渡って続いた歴史的過程である。
その発動が毛沢東という個人にあり、自身の権力を守るため敵と規定した人物を排除することをめざした政治的な権力闘争であったので、確かに「革命であった」ともいえる。また、「プロレタリア(無産階級)」という語が添えられていたことに示されているように、階級闘争を意図したものであったことも明らかである。
さらに、あえて「文化」を冠しているように、思想や芸術、広い意味での文化の転換を求めた変革でもあった。ただし、それらを評価しない者からは、単なる暴動、混乱としか捉えられないだろう。
この歴史的事象をどうとらえるかは、立場によってさまざまである。だが、この文化大革命を経ることによって、社会主義の建設を目指した中国が、共産党の一党独裁を継続しながらも、現在のような資本主義的な経済大国に変身するという「大変革」がもたらされたことは事実である。
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それでは第33話の締めくくりの1曲、『江淑娜 + 洪榮宏 – 風 & 勝手にしやがれ ( かってにしやがれ ) 【國語日文演唱】』をどうぞ!
(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)
【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月 洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月 京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月 筑波大学(数学)
画像および参考:
・『国会会議録検索システム』第75回参議院文教委員会 第14号 昭和50年6月17日
・『YouTube』 hou4you ― 江淑娜 + 洪榮宏 – 風 & 勝手にしやがれ ( かってにしやがれ ) 【國語日文演唱】
・『共同通信社』田中首相訪中 毛沢東主席と会見
・『YouTube』 ANNnewsCH ― 1972年 日中国交正常化 田中角栄総理の訪中団 共同声明調印までの記録映画(2022年9月28日)【映像記録 news archive】