【皇室、徒然なるままに】第9話 宮内庁広報室がやるべきこと・後編 西村泰一
皇室の情報発信の強化ということで、宮内庁に広報室を設置させることを推進なさったのは秋篠宮様と了解しておりますが、皇室の情報発信は広報室に限定されるわけではありません。例えばーー。
【1】突撃取材の映像も大切な情報発信
先日、秋篠宮様は紀子様とご一緒に英国の戴冠式にご出席されましたが、その折に日本のテレ東BIZによる突撃取材を受けておられておられますね。それも大切な情報発信です。
その詳細は次のとおりです。
記者:殿下、お疲れさまです。日本からです。ちょっといいですか?戴冠式はどんな様子でしたか?
殿下:とても荘厳で、喜びに満ちた、いいお式だったと、そう思いました。
記者:昨日のレセプションでは、陛下のメッセージは国王とかには、きちんと伝わったとお考えですか? いかがでしたか?
殿下:たくさんの方とお会いになってましたからね。ですけれども私からはお伝えしました。
記者:妃殿下、式はどうでしたか?
妃殿下:………。
記者の男性は、「レセプションでは、陛下のメッセージは国王とかには、きちんと伝わったとお考えですか?」と聞いておられるのに、秋篠宮様は「私からはお伝えしました」と噛み合わない答えをされています。普通こうした場合、「国王はこう仰っていました」とかの返答をすべきでしょう。
それと紀子様は、彼女の周りの人達の間では”怒髪怒声”と恐れられていられるのに、こういう場ではいつも、殆ど聞こえない程の小さな声で話されます。何故でしょうか? こういう噛み合わない会話というのは、日本語での場合だけでなく、殿下も妃殿下もお得意とされている英語でもそうです。
一例を、Real Imperial Story by 輸入食品でおなじみの一ノ瀬さんによる、『A宮負債☆通訳なしでのギリシャ首相夫妻との面談の音声映像をご紹介!』というYouTubeの動画から紹介させていただくと――。
ギリシャ首相:I brought you sunshine.
紀子妃殿下:Yes.
ギリシャ首相:Yes, it is indeed lovely.
これなんかも、”Yes”で会話をぶった切るのではなく、会話の妙が試される場面です。このあたりについては、一ノ瀬さんの動画で解説を御覧ください。
雅子様あたりは、こういう会話は殆ど神業の域に達しておられるので、秋篠宮殿下も紀子妃殿下も、教えを請われるといいかと思われます。それから言葉だけではなく、仕草や立ち振舞い等で「皇族らしさ」を醸すことも大切な情報発信です。
例えば殿下は先日、脱いだシルクハットをまるでスーパーの買い物袋を持つように持っておられました。
これなんかも、天皇陛下に教えを請われたほうがいいでしょう。
先日の戴冠式では、妃殿下の着物装束なんかも国内ですごいブーイングを巻き起こしたことはよくご存知かと思われますので、ここではこれ以上述べないことにします。
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【2】情報発信については整合的にお願いしたい
例えば先のテレ東の動画のなかで――
「秋篠宮様はイギリス留学の経験もおありですが、あまりイギリスの交友関係などは伝わってきません。留学中は昭和天皇の喪中でしたから、人にも会わず、博物館や図書館に籠って、研究生活をされていたそうです。貴重なナマズの標本や沢山の種類の鶏がいて、学術的好奇心に火がついていたという話を聞いたことがあります。」
とのことで、これは宮内庁ないし秋篠宮サイドの意向を踏まえての話と思われますが、これと紀子様との喪中婚、つまりーー
「考えてみれば異例中の異例の出来事でした。宮内庁記者たちは、まったく想像もしていなかったでしょう。まず第一に昭和天皇が1月に亡くなられた、その年の8月のことで、まだ喪中でしたからね。しかも、礼宮は学生という御身分、当時はイギリスに留学中でした。年齢もまだ23歳とお若かった。兄宮に先駆けるというのも、長幼の序を重んじる皇室において、考えられないことだった」
――は、全く整合的ではないのです。喪中だから留学中の英国では誰にも会わない、しかし紀子様とは喪中であろうとお構いなく、駄々を捏ねて婚約してしまう。これはどう見ても整合的とは言えないでしょう。
【3】出征兵士を送る歌
子供の頃、祖父は私に手回しの蓄音機で戦前の名曲をよく聞かせてくれました。中でも印象に残っているのは、『出征兵士を送る歌』です。主役は昭和天皇で、現在でもYoutubeで視聴することができます。
一、わが大君(おおきみ)に召されたる
生命光栄(いのちはえ)ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の歓呼は高く天を衝く
いざ征(ゆ)け つわもの 日本男児!
二、華と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊めて
正義の軍(いくさ)行くところ
たれか阻まんその歩武(ほぶ)を
いざ征け つわもの 日本男児!
三、かがやく御旗(みはた)先立てて
越ゆる勝利の幾山河
無敵日本の武勲(いさおし)を
世界に示す時ぞ今
いざ征け つわもの 日本男児!
四、守る銃後(じゅうご)に憂いなし
大和魂ゆるぎなき
国のかために人の和に
大磐石(だいばんじゃく)のこの備え
いざ征け つわもの 日本男児!
五、ああ万世の大君に
水漬き草むす忠烈の
誓致さん秋(とき)至る
勇ましいかなこの首途(かどで)
いざ征け つわもの 日本男児!
六、父祖(ふそ)の血汐に色映ゆる
国の誉の日の丸を
世紀の空に燦然(さんぜん)と
揚げて築けや新亜細亜
いざ征け つわもの 日本男児!
秋篠宮の人気挽回を図ろうとする宮内庁広報室では、なんとこれの秋篠宮バージョンを鋭意制作中だそうです。仄聞した話なので真偽の程は不明ですが、ただ、本当であれば早く歌詞を拝見したいものです。
余談ですが、祖父は兵役により満州事変で戦ったことがあり、祖母の自慢は「おじいちゃんは満州事変で戦って、上等兵になって戻ってきた」というものでした。
(理学博士:西村泰一/画像等の編集:エトセトラ)
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★ここでちょっと西村先生のデザイン画を紹介★
【解説】
近代日本が行った戦争という話になると、戦後は一切戦争をしていないので、明治維新から終戦までという話になるが、日清日露の両戦争に代表される前半と、満洲事変に始まり終戦に至る15年戦争に代表される後半に大きく分かれる。
前半については、日清戦争はともかく、日露戦争は全くの辛勝で、いくつかの大きな幸運に助けられたという側面は否定できず、織田信長の行った戦争に例えるなら、桶狭間の戦いあたりになるのであろう。ただし織田信長は生涯に一度しか桶狭間の戦いのような戦争をしていないが、日本軍はこの日露戦争をその後の範としてしまったところがあり、太平洋戦争末期の負け戦であることが歴然としている状況下でさえ、インパール作戦のようなとんでもない起死回生の大博打を打って墓穴を掘っている。
☆☆☆ そして前半と後半の間にくるのが第1次世界大戦であるが、日本はここでは本格的な戦闘をなんら経験せずに漁夫の利を得たことが、かえって総力戦時代に見合った軍隊の近代化を遅らせることになる。太平洋戦争を待たずとも、そのことが如実に現れたのがノモンハン事件で、2度の五ヵ年計画ですっかり様変わりしたソビエト軍に、泣く子も黙る関東軍は翻弄されることになる。
“賢者は失敗から学び、愚者は同じ失敗を繰り返す”と言うが、日本の軍部がどうしてソ連をアメリカに替え、戦場を陸から海に替えればすべてうまくいくなどと思ったのか理解不能である。ノモンハン事件で、もっと悍ましいことには、辻政信あたりのA級戦犯が大した処分もされずに、ほどなく軍部の中枢に返り咲いているのに対し、彼の命令に忠実であった何人もの下級仕官は理由にもならない理由で、詰め腹を切らされて、自決に追い込まれている。
☆☆☆ 前半と後半を分ける大きな違いは、前半は、軍人ではないが日清戦争でPivotal Leadershipをとった伊藤博文あたりが典型的であるが、幕末に下級武士としての教育を受けた人達が担ったのに対し、後半の戦争を担ったのはいわゆる陸大あたりで養成されてきた軍事Technocratsで、東条英機あたりがその典型となる。
近代国家の戦争は、国家をあげての営みで、特に第一次世界大戦後のように総力戦の時代に入ると、なおさらである。当然、軍事と政治、外交、経済がきちんと統括されないとまともな戦いはできない。下級武士の教育というのは、いわゆる儒学と朱子学中心というか、要するに、論語あたりを幼い頃から、意味がわかろうがわかるまいがに関係なく、素読させる。
それでどういう技術が身につくというわけでもないのだが、大所高所から考えるという人生や社会に対する処し方は身につく。技術的なものは後で必要になれば、大急ぎで勉強することも、あるいは下の者に任せることもできるが、この大所高所から考えるという態度は一朝一夕に身につくものではない。
これに対し、陸大あたりの教育は、完全に軍事技術的な話に偏り、戦争でLeadershipを取る人間に絶対欠かせない社会科学あたりの教育はほとんどないか、お粗末そのものである。結果として、蛸壺的な軍事に関する知識以外には、他愛もない精神主義しかない軍事Technocratsを大量に生み出し、こういう人間が、国家をあげての戦時体制に移行して、経済や外交にも嘴をはさんでくるようになるとどうなるかをまざまざと示しているのが、15年戦争の頃の日本である。
☆☆☆ 太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃の折も、敗戦を決定的としたサイパン陥落の折も首相の座にあったのは東条英機である。安倍晋三元首相の外祖父にあたる岸信介は、東条内閣に商工大臣として入閣しているが、東条を評して“裸にすれば、橋本欣五郎以下の男だ”と喝破している。橋本欣五郎というのは、三月事件と十月事件というチャチなクーデター未遂事件を起こした桜会の中心人物で、奇矯な行動で有名な方である。
ドイツの社会学者Max Weberは“最高の官僚は最低の政治家である”という名言を残しているが、これが見事なまでに当てはまるのが最高の軍事官僚であった東条なのである。官僚というのは、規則にさえ従っていれば、その結果に対して責任を問われることはない。これに対して政治家は結果責任である。東条の側近であった星野直樹は東条を評して、“やれと言われれば何でもできるが、そこから先がない”と的確なCommentを残している。
満州事変の立役者で、東条と犬猿の仲だった石原莞爾あたりになると、もっと辛辣で、極東軍事裁判の参考人として“あなたと東条はよく意見の対立があったようですが”と水を向けられると “私には多少とも意見がありますが、東条には意見と呼べるものが全くありません。意見のないものとは対立のしようがありません。” と鰾膠も無い。
☆☆☆ 2009年2月にBirkhauser社から中澤武雄という数学者に関する本を現代語現代文化学系の黒田先生と共著で出版した。中澤武雄は1913年高知県生まれで、シベリア抑留の後、33歳で1946年にハバロフスクの病院で栄養失調で他界されている。本学の前身の前身である東京文理科大学の副手を1930年代に数年間務められた数学者で、Matroid理論の先駆者であるにもかかわらず、長い間その業績は顧みられることはなかった。
先の太平洋戦争では、中澤に限らず、夢半ばで他界された若者は数え切れない。先に述べた著書は200Pages強であるが、その最初の60Pagesくらいを当時の日本がどのようにしてこの戦争に導かれたかという歴史学的ならびに社会学的分析に費やしたので、ここでは繰り返さない。
中澤に興味を持ったのは、2006年の夏であるが、上記の本を執筆する過程でこみ上げてきた合理的思考には収まりきらない情念のようなものをこの作品で表現してみた。なかなか一言では言いにくいのだが、“愚かさに対する怒り”とでもいうべきものである。
この“愚かさ”は特定の個人というよりは、日本という国家の歩みのなかで突出したそれを指している。そしてもっと恐ろしいのは、それは決して過去のものではないという点である。そんなことを頭の片隅において鑑賞していただければ、幸いである。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月 洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月 京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月 筑波大学(数学)
画像および参考:
・『YouTube』Real Imperial Story by 輸入食品 ― A宮負債☆通訳なしでのギリシャ首相夫妻との面談の音声映像をご紹介!
・『YouTube』 Real Imperial Story by 輸入食品 ― 【訂正動画】ギリシャ首相とキーコさんの英会話の後半の内容修正版!
・『CREA』“昭和天皇の喪中”「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表”
・『ヤフー知恵袋』 2019/3/31 昭和天皇の喪中に、秋篠宮殿下が「紀子と結婚出来ないなら皇族離脱する」と言ったそうですが…
・『YouTube』 hiro kawanaka ― 出征兵士を送る歌(再編集)