【皇室、徒然なるままに】第25話:ご発言にみる昭和天皇の帝王学と遺言 西村 泰一
昭和天皇は崩御される前に、皇統についてしきりに周囲にお話をされていたそうである。そこには「浩宮(今上天皇)の次は浩宮の子」という、語り継がれる遺言のようなご発言があったとも噂されている。
東宮侍従長および東宮傅育官を務められた濱尾実氏により、幼い浩宮の時代から帝王学のご教育を受けられ、慎ましやかな生活を好まれるという今上陛下。見事に継承されたのは、やはり昭和天皇の国民を思いやる精神であった。今回は昭和天皇による、そういったご発言の数々を紹介させていただきたいと思う。
◆外交と戦争
日中戦争が1937年の盧溝橋事件により勃発した後、国民党を支援する米国との関係は急速に悪化した。そして1941年9月6日の日米開戦に関する御前会議に先立って、昭和天皇は近衛文麿首相、陸軍の杉山元参謀総長、海軍の永野修身軍令部長を前にして、このように仰せになったという。
「外交と戦争は並行せしめず、外交を先行せしめよ」
だが、日本は1941年12月8日未明に真珠湾攻撃を開始したのである。
◆軍人の一部に戦争癖
昭和天皇は1946年(昭和21年)、当時の木下道雄侍従次長に対し、こう発言されたという。
元来軍人の一部は戦争癖がある。軍備は平和のためにすると口にしながら、軍備が充実すると、その力を試してみたくなる悪いくせがある。これは隣人愛の欠如、日本武士道の退廃である。
これは、1928年の張作霖爆殺事件や1931年の満州事変を念頭においておられるものと思われる。内閣総理大臣・近衛文麿はアメリカとの戦争に反対していたが、軍やその関係者は数字を挙げ、理論づくめで勝算があることを主張していたと伝えられている。
◆明治の軍人と昭和の軍人
終戦間もない1945年(昭和20年)9月9日、栃木県の奥日光に疎開されていた皇太子(現・上皇)のもとに、昭和天皇の手紙が届いた。
明治天皇の頃には、山県有朋、大山巌、山本権兵衛等のごとき陸海軍の名将がいたが、今度の時には、あたかも第一次世界大戦のドイツのごとく、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って退くを知らなかったからです。
昭和天皇は戦争の敗因を、このように分析されていたのである。
◆靖国参拝
これは、昭和天皇による靖国神社に関するご発言を綴ったといわれる「富田メモ」の一部である。
満州事変が起きた後の1933年(昭和8年)、松岡洋右は国際連盟を脱退したときの全権大使であった。1948年12月にA級戦犯として処刑されたが、『昭和天皇独白録』でも、昭和天皇から「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないか」と酷評された人物である。
白鳥敏夫・元駐イタリア大使は、松岡とともに日独伊三国軍事同盟を推進したが、昭和天皇はこの同盟に反対であった。そして1978年(昭和53年)、「東京裁判」を経てA級戦犯として処刑された松岡を含めた14柱が、靖国神社に秘密裡に合祀された。
その3年前を最後に、昭和天皇は靖国参拝への行幸(ぎょうこう)をなさっておられない。この靖国神社のA級戦犯合祀問題について、ぜひ1度は『Wikipedia』で詳しく御覧いただきたいと思う。
◆陸軍と海軍
1944年(昭和19年)、陸軍と海軍はお互いに縄張り意識が強く、戦況が劣勢となってからも、なかなか協力しようとはしなかった。
陸海の首脳部がついに意見一致せず、ひいては政変を起こすがごときにあっては、国民はそれこそ失望して、五万機が一万機もできないことになるだろう。
海軍には航空機の搭載がほとんどないような航空母艦があるはずだ。あらゆる面で性能の優れたその海軍の航空母艦をなぜ陸軍の輸送用に使わないのか。
これは現在の総務省のなかにある、旧自治省と旧郵政省の対立みたいなもので、昭和天皇はひどく憂いておられたという。
◆立憲君主制
二・二六のときと終戦の時の、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた。
二・二六事件の折、襲撃を受けた首相の生死が不明だったために、昭和天皇が自ら鎮圧を指示。終戦時は、ポツダム宣言の受諾をめぐって軍と政府首脳の意見が対立し、昭和天皇が自ら聖断を下された。
◆指導的地位
日本の陸軍首脳部は、日本の主導による「大東亜共栄圏」を唱えていた。そして昭和天皇は、これを諌めておられた。
指導的地位は、こちらから押し付けても、できるものではない。他の国々が、日本を指導者と仰ぐようになって、初めてできるのである。
◆国際法
1937年の盧溝橋事件以来、大陸に展開している日本軍は、統率が悪化するに従い、捕虜の虐待や略奪が横行した。昭和天皇はこれを諌めておられる。
ナポレオンもビスマルクも、戦略家で攻撃的ではあったが、国際法を破るということはなかった。
◆心は常に国民とともに
1944年6月にサイパンが陥落して、日本本土空襲の前線基地となった。それ以来、日本陸軍は昭和天皇の身の安全のため、長野県松代に大規模な地下壕の建設を進め、大本営と天皇の座所を長野県に移転させることを進言した。
しかし昭和天皇は、空襲がいくら激化しても、こう仰って東京を離れることはなかった。
私は国民と一緒に東京で苦痛を分かちあいたい。
1945年5月空襲で皇居が焼けた折には、このように仰っている。
そうか、焼けたか。これでやっとみんなと、同じになった。
昭和天皇は戦後も、皇居の施設の再建が国の財政の負担になることを御懸念された。実際に再建されたのは終戦から23年も経った1968年のことであった。
戦後の巡行の一環で、昭和天皇は1946年6月に千葉県の成田、佐原、銚子などを視察なさっている。銚子では戦災の影響で適当な宿泊所がなかったため、昭和天皇は貨物専用の列車内で車中泊されることとなった。その折のお言葉である。
戦災の国民を考えれば、私は平気だ。十日間ぐらい、風呂に入らなくても構わない。
1947年8月に服の新調をお断りされた折のお言葉である。愛子さまのティアラ新調を御辞退なさる心情と通じるものがある。
アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いいものを着たって、当たり前だが、日本は敗けて、今みんな着るものもなくて、困っているじゃないか。洋服なんか、作る気になれない。
こちらは1949年6月、九州巡行の折のお言葉である。
戦後まだ日も浅く、みんな生活に困っている。私は、それを慰め、励ましに行くのが目的なのだから、私の旅行のために、無駄な費えがあるようでは、意味がない。くれぐれもそういうことのないように。
そう言えば昨今、やけに九州にこだわる皇族の方がおられるようだが…。
◆国民からの尊敬
こちらは、ヨーロッパの王室と日本の皇室を比較されてのご発言であった。
国民が尊敬している皇室は長く続きます。そういうことは東西ちっとも変わらないと私は思います。
逆に言うと、国民の尊敬が得られないならば、皇室はそれで終わりでということである。秋篠宮やそのご子息のアンポンタン、そして馬鹿みたいに男系・男子を主張される方々に、よく噛み締めていただきたいお言葉である。
◆税金
1934年4月、陸軍の予算について仰せられたお言葉である。
予算は通過せりといえども、皆国民の負担なり。針一本といえども、無駄にすべからず。
「もっと金を!」と曰われたという、般若面と笑面を取っ替え引っ替え着けておられるアノ方にも、また、とっくに結婚して皇室から逃げ出すはずだったものの、相手の男性に三行半を突きつけられて行き場を失い、ご仮寓所を占拠してしまわれたアノ方にも、よく噛み締めていただきたいお言葉である。
◆平和
銃剣によって、または他の武器の使用によって、永久平和が樹立かつ維持されるとは考えられない。勝利者も敗北者も、武器を手にしては、平和問題は解決しえない。真の平和は、国民の一致協力によってのみ、達成される。
これは1945年9月、『ニューヨーク・タイムズ』の取材にてのお言葉である。
◆乃木希典(のぎ まれすけ)
晩年、昭和天皇はこう言われたそうだ。
私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった。
乃木さんは日露戦争のあと、明治天皇に頼まれて学習院長をなさっていた。その折に学習院に通学されていた昭和天皇との会話が残っている。
乃木:陛下はどういう方法で通学なさっていますか?
昭和天皇:晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います。
乃木:雨の日も、外套を着て、歩いて通うように。
昭和天皇はこの会話から、「質実剛健でなければならない」ということを学んだと仰っています。秋篠宮の息子のアンポンタンは、忖度入学した筑附に、どのようにして通学なさっていますか?
◆皇位継承について
「皇統は秋篠宮には絶対移すな」
「浩宮の次は浩宮の子である」
昭和天皇が遺言のようにこう仰せられたという話が、いまだ言い伝えられている。『とっておき.com』さんによると、それらが明確に記述された資料は存在しないが、昭和の時代に宮内庁に務めていた職員たちの間では、よく知られた事実だったそうだ。
なぜ昭和天皇がここまで強くこういうことを仰ったのか、いまひとつ納得のいく理由が思い浮かばなかったのであるが、『ヤフー知恵袋』にちょっとしっくり来るものを見つけたので、ご紹介してみたい。
※ 第26話は、『皇室を法で統治する その1:江戸時代に倣おう』をお送りする予定です。ご期待下さい!
それでは第25話の締めくくりの1曲、『日本の国歌 “君が代” ロックバージョン / Japanese National Anthem – Kimigayo (rock version)』をどうぞ!
(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)
【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月 洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月 京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月 筑波大学(数学)
画像および参考:
・『Discover Japan』第124代「昭和天皇」|20人の天皇で読み解く日本史
・『YouTube』 odack3508 ― 野村萬斎 扮する昭和天皇が杉山元を叱責
・『Amazon』昭和天皇 100の言葉 ~日本人に贈る明日のための心得 (宝島SUGOI文庫) 文庫 – 2017/5/9
・『Wikipedia』冨田メモ
・『Wikipedia』A級戦犯合祀
・『YouTube』シネマトゥデイ ― 映画『日本のいちばん長い日』本編映像(昭和天皇の御聖断シーン)
・『とっておき.com』昭和天皇は遺言で皇統は秋篠宮に移してはならないと言っていた!
・『ヤフー知恵袋』秋篠宮殿下は美智子様の妹の子だと竹田恒やすさんが云ってましたが、本当ですか?
・『YouTube』Rock: Other Worlds ― 日本の国歌 “君が代” ロックバージョン / Japanese National Anthem – Kimigayo (rock version)