米国で講師経験1年の川嶋辰彦氏、学習院でいきなり助教授に? 大学が「その他」に明記しなかった活動も謎
娘を「教育ではなく誘導しながら育てた」などとおっしゃった川嶋辰彦氏は、いったい何者だったのだろう。
実は今月上旬のこと、ある読者さまから【YOUR VOICE】成人後も解除されない悠仁さまの罰則付き報道規制 その時点で公人失格なのでは?に対し、とても興味深いコメントを頂戴していた。
ただ、YouTuberさんをはじめ、皇室ウォッチャーたちの間で当時は新年一般参賀、講書始の儀、歌会始の儀などの話題でもちきりで、その話が埋没してしまう可能性があり、それではあまりに勿体ないと感じ、記事化までしばらくお待ちいただいた。
新年の重要な宮中行事に関する話題も一服。しかし衆院選挙までまだ少しあるこのタイミングで、今こそこの話題を紹介させていただきたいと思う。
◆英語の追悼文に感じた違和感

するどい考察を送ってくださったのは、これまでも度々重要な情報を寄せてくださっていた「きさらぎ」さん。
紀子さまの亡きご尊父・川嶋辰彦氏(2021年11月・満81歳没)の経歴に関するものと、悠仁さまが幼少期に履いておられたシューズについてで、こちらではその前者を原文のままご紹介したいと思う。
悠仁さんと辰彦氏と一緒の写真、元のサイトを見たら、IIASAによる辰彦氏の追悼文なのですね。でも、こちらの紹介と、Wikiとでは、内容が違っているかもです。
■Wiki(関連部分のみ)
学歴
1971年、ペンシルベニア大学大学院博士課程修了、同年Ph.D. in Regional Science取得
職歴
1972年、ペンシルベニア大学大学院専任講師
1973年、学習院大学経済学部助教授
1976年、学習院大学経済学部教授
1977-1979年、国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリア)主任研究員
1994-1996年、学習院大学東洋文化研究所長
■IIASAによる追悼文の問題の部分
He had joined Gakushin University in 1973 after receiving his PhD in Regional Science from the University of Pennsylvania, and returned there after completing his sabbatical at IIASA in 1979.
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「1973年にペン大から学習院」(Gakushin Universityと表記が間違っている)とは書いてあるものの、「joined」という言葉は助教授に就任にしてはおかしいのではないかと思います。
辰彦氏は1977~1979年まで、国際応用システム分析研究機構(IIASA)の主任研究員としてオーストリアで過ごしておられた。その英文は、辰彦氏の訃報に元同僚たちが連名で追悼の文章をIIASAの公式HPに寄せたものであった。
◆学習院大学にjoinした後のこと
きさらぎさんが疑問視しているのは、ペンシルベニア大学から学習院大学に移って、どんなポジションに就いたのか(本当に助教授だったのか)ということである。
川嶋辰彦氏は1971年にペンシルベニア大学大学院の博士課程でPh.Dを取得し、翌年には大学院(大学ではない)の専任講師を務めていたとある。そして次の年には帰国して学習院大学へ。1940年生まれゆえ、1973年はまだ33歳であった。
辰彦氏は専任講師の経験がたった1年にもかかわらず、Wikipediaによれば、学習院にきていきなり経済学部の助教授になっていたようだ。驚くような大出世である。ただし、本当に「助教授」として迎えられたのであれば、それを称える意味でもIIASAの文章が “join” だけなのはおかしい。
その文章が “He had joined Gakushuin University as an assistant professor in 1973 after receiving his PhD in Regional Science from the University of Pennsylvania……” ではなかった理由。それは「助教授ではなかった」からではないだろうか。
◆学習院大学が示しているデータにも不明な点
当の学習院はというと、これまた不思議な資料を出している。

そして1976年には学習院大学の教授に昇格。辰彦氏は翌年、オーストリアのIIASAに2年間の長期研修へ。ただしその後の1979年から1994年までの15年間(紀子さまのご結婚は1990年)の経歴には、「その他」であろうもっと様々な活動があったようだ。
ゼミでは学生たちと長野の部落で過ごすなどしていたという。
学習院はそのあたり、公表しているのだろうか。していないとしたら、きちんと把握できていないのか、それとも触れたくないのだろうか。
◆アスベストにどこで被爆したのかも疑問
筆者はまた、辰彦氏の死因が中皮腫によるものであったことにも注目せずにはいられなかった。発症は2020年あたりと考えられ、そこから潜伏期間(30~40年)を逆算し、ちょっと範囲を広めにとると、1975年から1990年までのどこかでアスベスト(石綿)への被爆があった可能性がある。
辰彦氏は1977~1979年までオーストリアの国際応用システム分析研究機構(IIASA)に在籍。学習院大学にあった古い厩舎が原因かもしれないが、そのオーストリア時代に出入りしていた施設の可能性も考えなければならないだろう。紀子さまが馬を引き、お世話をする写真が複数あるためだ。
「古い厩舎、特に1970年代から1980年代初頭に建てられた建物では、屋根材、壁材、天井材などにアスベストが使用されている可能性が高い。アスベストは、1960年代から1980年代半ばにかけて、断熱性や耐火性に優れた建材として広く使われていました」とAIは回答。この件は、洋の東西を問わないという。
仮に、学習院大学の厩舎で過ごした時間が長いことが原因だった場合、他にも発症した方がいたり、賠償金・給付金を求め、弟の川嶋舟氏が何らかのアクションを取ることもできただろうが、そういう報道はあっただろうか。
学習院が「その他」とした部分は本当に謎めいている。実際にオーストリアで過ごした年月は、私たちが知らされているよりも、ぐんと長かったのかもしれない。なぜそんなことを想像してしまうのかというと…。
◆北朝鮮のスパイ活動の拠点だったウィーン
昨年9月、当時のオーストリアに関して、むささびXさんという方より貴重なコメントが寄せられていた。
北朝鮮による拉致が終わりに向かう数年の間のちょうどその期間、川嶋家の皆さんは1977年8月からオーストリアに滞在していました。当時のオーストリアは北朝鮮のスパイ活動の拠点であり、多数の北朝鮮工作員がいたそうです。
北朝鮮はウィーンを拠点にスパイ活動を展開していたという(画像は『ヤフーニュース』のスクリーンショット)
妙に符合しませんか? 拉致より「送り込む」方がコスパがよいとなった? 韓国の壺教とも北朝鮮の指令とも絡む、なんてことは考えにくいのですが、日本国への遺恨と支配欲で一致団結?
ウィーンと北朝鮮スパイ活動の話題、詳しくはこちらの記事でご確認を!
■【YOUR VOICE】川嶋家も1977年8月から暮らしていたウィーン 当時、多数の北朝鮮工作員がいたそうです
川嶋ご一家のオーストリア暮らしに関しては、きさらぎさんの考察などを交えながら以下の記事にまとめていた。
■勤務先に学校に観光名所に…謎めくウィーン時代の川嶋家の写真 イカサマ露呈のご学友写真まで
また、辰彦氏の1960年代の経歴に対する疑問が、昨年9月にも匿名の方からコメントとして寄せられていたので、こちらも是非どうぞ!
■【YOUR VOICE】Wikipedia「川嶋辰彦」と学習院が公表していた「略歴」では1966年~73年がかなり違う
(朝比奈ゆかり/エトセトラ)
画像および参考:
・『Wikipedia』川嶋辰彦
・『IIASA』Professor Tatsuhiko “Tats” Kawashima, IIASA 1977-79 (1940-2021)
・『学習院大学』川嶋辰彦教授略歴ならびに著作目録
・『ヤフーニュース』音楽の都が実は「北朝鮮の密輸・スパイ拠点」という不似合いな組み合わせ
・『エトセトラ・ジャパン』川嶋辰彦氏ご逝去から2年 元同僚が投稿していた貴重な「悠仁さまとお耳がお揃い」写真に思うこと
・【YOUR VOICE】川嶋家も1977年8月から暮らしていたウィーン 当時、多数の北朝鮮工作員がいたそうです

怪しいことばかり
2026年01月12日「ブログ、ブルーサファイア」でご覧を、、
>今度はキコ妃のルーツです。
Xで1年半ほど前のポストが流れて来て、よくよく見るとこれって…
ポストされた方は、民団 新潟支部で検索してみて、と書かれています。
やってみると確かに「在日本大韓民国民団 新潟地方本部」が出てきます。
そして、ポストにあった名前…金慶昭を検索すると、キコ父とこの方の関係が書かれているサイトが出てきました。
週刊新潮2019年6月の記事に載ったようです。
> それでもう1つ、下の方までずっと見ていくと、コメント欄に書き込みがありました。
コメント欄ですから、信ぴょう性は保証できませんが、一応参考まで。
紀子さんの結婚のころ、茨城県北の村の役場に週刊誌の記者が訪ねてきたそうです。
話題の紀子さんのおば(大叔母?)がこの村に嫁にきていると確かめにきたようで話題になったそうですが群馬(伊勢崎?)の方から連れてきたとかでした。チマチョゴリをきていたこともあるようです。その辺りは昔の隠し金山のあとがあり戦前からずっと鉱山労働者が家族を連れ入山し、地元の小学校にも通わせていたようです。(略)
>噂と疑わしい交友関係が残っているだけですか。
出自がアチラ系となると、その方の生んだお子様がショラテンって、いくら何でもまずいでしょう。(略)
(詳しくは本文で)
■1960年代後半といえば、アメリカと北朝鮮は極度の緊張関係にありました。実際に1968年にはアメリカの情報収集艦「プエブロ」が北朝鮮に拿捕されるという事件もあります。
https://gendai.media/articles/-/105288
■辰彦氏は家族連れで渡航しているとのことですが、なぜなのか疑問に思っていました。経済的にも苦しいでしょうし。
そこで、発想を変え、「和代さんが渡航する必要」という可能性があると思うようになりました。なにしろ、この時代であり、また、朝鮮半島とは深い繋がりをお持ちの方のようですから。
■まず、ペンシルベニアは、首都ワシントンにとても近いです。情報活動にはなかない良い場所のように思えます。
■また、ウィーンは、スパイ天国という話です。
紀子さんが通ったアメリカ・インターナショナル・スクール・オブ・ヴィエンナの近くに住居があったと仮定するなら、市街地の北西側になります。地理的に、市街地から大きく南側に離れている辰彦氏のIIASAを考えると、大変不便なことになります。
住居は、むしろ、大韓民国や北朝鮮の大使館に寄っている場所に見えます。
※IIASAの所在地について:
・IIASAのサイトにもアクセスは書いてありますが、とても不便そうです。
・「ウィーン南駅からバスで30分」(IIASA出張報告より)
https://www5c.biglobe.ne.jp/~acidrain/pagea2.htm
むささびXさん
聞いたのではないですがその話しは何度もコメ欄で見ました。だから、本当なのかなと思っていました。
また、紀子さんが馬術部に入ってたという記事を読んだ覚えがあるのでカワタツ氏が馬術部長と見たのでなるほどと思った次第です。でも、もしも、皇族関係を批判したら悪いことが起こるならそれは意図的だと思えますね。怖い話しです。
今現在の皇室の負の部分は、前天皇夫妻の対応の不味さが響いてるからなのだなと改めて強く感じましたよ。
礼宮が皇室離脱したいと騒ぎ出した時点で手切れ金を持たせて離脱させれば良かったのです。さすれば男系のみの皇位継承を考え直す機運が当時から高まっていたと思います。まぁ間違いの大元は前天皇の婚姻時から始まっていたと言えるのですが。。
川嶋辰彦氏は娘を皇室に送り込むことに成功しましたが、そもそもの目的は皇族の弱みや秘密を握ることだったのではないかと思ってます。弱みや秘密を握ってもちろん証拠も握って。
周りが気づいた時には脅しに屈することしかできなかった。そして歳月が流れ、小室圭さんも全く同じ手法で皇室に食い込んだと見ます。紀子さんも実の子を道具のようにしか利用しないけど、それは父親から学んだものですもんね。
川嶋氏がまともな研究者でないのは、学習院の学長選に出て見事にコケたことでも証明されています。あの時は学習院の良識を感じました。
それにいくら皇室ゆかりの学校だと言っても独立した宮内庁とは全く別の組織ですからね。にしてもエトセトラに集まる方々の、ほんの小さな綻びも見逃さない考察にはいつもながら感服しております。
私も何も資料など持ってはいませんが、少しでも「あれ?」と感じたことを見つけたらご報告させて下さい。
ネット時代になりボロが出てき易くなりましたが、敵も察知したらすぐに削除したりアクセス不能にしたり、卑怯な手を使ってきます。
案外、アナログなものにも何らかの綻びがあるかもしれないと思って見直すようにしたいと思います。(普通に出版されたありふれたものしか持ってませんが)個人が紙ベースで持ってるものは向こうもどうしようも出来ませんからね。
《紙ベースに残されてるもの》
両陛下ご成婚時に出された『永久保存版 皇太子さま 雅子さま』(別冊女性セブン)
最後の方にどうでもいいミテコさんページが少し。その中に当時、他の妃殿下候補の方々の紹介ページがあって驚きましたよ。(もちろん写真付き)
個人情報やかましく言われる今では考えられませんね。せっかくなのでここに記しておきます。(皇太子殿下とは現・上皇さまのこと)
渋沢順子さん(皇太子殿下の4才年下 学習院 バスケット選手として人気をあつめていた)
徳川三千子さん(母 正子さんは秩父宮妃殿下の妹 学習院では皇太子殿下の3年後輩で朗らかな明るい性格と紹介されている)
徳川博子さん(三千子さんの2才下の妹 温和な性格)
久邇通子さん(皇太子殿下とは幼稚園以来の同級生 いとこ同士 文化祭等で活躍する女性だったという)
久邇英子さん(通子さんの4才下の妹 無口で温和な性格だと紹介されている)
島津純子さん(昭和12年4月生まれ 元華族 島津忠承日赤社長(当時)の長女 学習院から聖心女子大学英文科へと進んだ)
北白川肇子さん(昭和14年11月生まれ 11歳の時から『候補』として浮上していたといわれる。元皇族として毎年元旦には皇居で両陛下や皇太子殿下に御挨拶する機会を持っていた。学習院に在学 初等科以来、成績も学年で1、2を争うほど優秀 スポーツもバレーボール、アイススケート、スキー等が得意で明朗、お茶目な性格と紹介されている)
松平之子さん(ミス学習院との噂が高かった女性 皇太子殿下の1才年下)
南部淑子さん(しっかりとした性格と評判の女性だった 皇太子殿下の4才年下 学習院)
徳川文子さん(皇太子殿下より2才年下 趣味は読書、ピアノ、日本画 学習院初等科以来 大学まで常に成績は1、2を争う才媛だった)
鷹司国子さん(父が元男爵 早くからお話があってもお断りするとの姿勢だった 皇太子殿下の5才年下 姉尚子さんも候補にあがってた)
伏見章子さん(昭和9年2月生まれ 学習院高等科では女子馬術部キャプテン 男子馬術部キャプテンの皇太子殿下とは一緒に練習する機会も多く、その後同窓会で出会うチャンスもあった。結婚し草刈姓に 皇太子妃候補とされた草刈智子さんの母)
あー、この中の誰かから選ばれていたら良かったのに。。
学習院大の紀要『経済論集』のPDF版から辿ってみました。
1973年10月に北大の都市計画の教授の還暦論文集に「追録」として公表した論文、「都市交通とその問題点──米国リンデンヴァルド・ラインとの関連において──」(『地域と交通』,五十嵐日出夫・他編,技報堂,東京,1973年,追録1-13頁)は国会図書館デジタルコレクションで読めます。そのあとがきに添えられた肩書は「学習院大学経済学部」とだけあり、助教授とか教授の表記はないものでした。本が出版後に付録のような格好で配布されたものです。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063598/1/233
続く1974年12月刊行の雑誌『高速道路と自動車』では「学習院大学助教授」になっています。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2688686/1/17
むしろ不明なのは「1966年(東大)教養学部助手等を経て」の1966年から71年ではないかと思われます。文献リストの1と2はデジタルコレクションにはありませんでした。
クイズ番組などでよく見かけ、人気者だった学習院大の篠沢教授、うっかりカワシマ教授を「教授ではなく馬丁だった」と言った?(うろ覚え、今検索してもなにも出てこず、馬術部長ということは出てきます。)直後、教授の夫人が交通事故に遭った、そして篠沢教授はキコサンびいきに転じた、という話を聞いたことがあるのですが、真偽は不明。たた、かなり出回っていた話のようです。聞いた方おられますか?
キコさんとアーヤの婚約が発表された当時私も何の先入観もお兄様を差し置いてってところが気に入らないけどまぁまぁおめでたいことね程度には思ってました。美容院や喫茶店で女性週刊誌でも載ってましたよね。その時にきっと女性自身だったような気がしますがキコさんのお父さんはG院の『講師』と書いてありましたよ!これは絶対です。
私はへぇそうなんだ…と思っただけで特には。
で、晴れて夫婦になったらいつのまにか助教あれよあれよという間に教授と書かれるようになってやっぱりねとは思いました。絶対に最初は講師と書いてありましたよ!これ絶対です。それにあの3DKの家賃3万円の住まいは教授クラスは住まないところだそうです。
よくテレビのクイズ番組に出てた学習院の篠沢教授も厩番だったとか言ってたそうじゃありませんからでもその後奥様だかご本人が謎の交通事故で瀕死の怪我をしなさったとか以来口をつぐんでしまわれたそうですね。当時の週刊誌をコレクションしてる方なら調べられますよ。絶対に講師となってましたから。
(勝手ながら【YOUR VOICE】掲載にあたり、わずかに文章を編集させていただきました。ご了承下さいませ。朝比奈より)