【皇室、徒然なるままに】第13話 瓦解する菊のカーテン(The chrysanthemum curtain is collapsing)中篇:その3 西村 泰一

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尊王論の物神化としての菊のカーテン《暴走する大日本帝国》

瓦解する菊のカーテン・中篇では、いわゆる菊のカーテン(The Chrysanthemum curtain)が、尊王論の残滓(ざんし)、あるいは昔流行ったマルクス主義的言い回しを用いるならば、物神化(fetishization)に他ならないことを論じる。

神話上の初代天皇「神武天皇」の即位年を皇紀元年とすると昭和15年は、皇紀2600年の節目の年となった(画像は『ジャパン・アーカイブズ』のスクリーンショット)
神話上の初代天皇「神武天皇」の即位年を皇紀元年とすると昭和15年は、皇紀2600年の節目の年となった(画像は『ジャパン・アーカイブズ』のスクリーンショット)

 

「尊王論の物神化としての菊のカーテン」を副題に、その1となる第11話では《王政復古と尊王論》として江戸期の尊王論について、その2となる第12話では《尊王思想が生んだ大日本帝国》として、大正天皇まで。さらに今回のその3では、巷でいまだにそれを口にする方がある「不敬罪」から始めてみたい。

 

― 不敬罪 ― 

不敬罪とは、天皇・皇族・神宮または皇陵に対する不敬の行為により成立する犯罪で、 1880年(明治13年)7月17日に公布された刑法典、所謂旧刑法の第2編第1章の中に規定されたものである。日本国内においては、1947年(昭和22年)の刑法改正により、天皇・皇后および皇族に対する不敬罪は廃止されている。

それでは、『Wikipedia』に依って「不敬罪」を少し詳しく見ておこう。

不敬罪の客体は、次の5種に分けられる。

∙ 天皇(74条1項)

∙ 太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫など天皇に準ずる皇族(同条項)

∙ 神宮(74条2項)

∙ 皇陵(同条項)

∙ 普通の皇族(76条)

不敬罪の実行行為は、これらの客体に対して「不敬ノ行為」(不敬行為)を行うことである。不敬罪の法定刑は、1.〜4.の客体に対する罪は「3か月以上5年以下の懲役」とされ、5.の普通の皇族に対する罪は「2か月以上4年以下の懲役」とされた。

不敬罪の客体のうち「神宮」は、伊勢神宮を指す。また、同じく「皇陵」は、かつて天皇に在位した歴代の天皇の墳墓と解された。なお、現在でも礼拝所不敬罪という罪名があるが、これは単に墳墓や神社仏閣の境内、教会堂全般に対する保護のためのもので、皇室とは直接関係ない。

不敬罪の保護法益は、客体が体現(象徴)する国家の名誉と尊厳、および客体自身の名誉と解された。そのため、不敬罪は、一般人における名誉毀損罪や侮辱罪など、名誉に対する罪の一種とされた。しかし、「不敬ノ行為」(不敬行為)は、これら一般人における名誉に対する罪の実行行為よりも広い範囲の行為を含むとされた。また、名誉毀損罪などが親告罪とされるのに対して、不敬罪は非親告罪とされた。

不敬行為とは、客体に対する軽蔑の意を表示し、その尊厳を害する一切の行為を指すとされた。客体の行為の公私の別・即位の前後・事実の有無・事実の摘示の有無に関係なく、これら全てについて一切の行為、上は実際の名誉毀損・侮辱行為から下は神性(現人神であること)に疑問を持つなどまで含む。

また、その行為は、第三者から認識し得ることを要するものの、公然・非公然の別を問わないため、日記の記述を不敬行為とした判例もあり、適用範囲はきわめて広かった。要求される敬意を不可抗力で払えない場合でも不敬行為とされた。

さて、翻って外国では現在どうかというと、例えば次のようである。

(タイ)国王、王妃、王位継承者あるいは摂政に対して中傷する、侮辱するあるいは敵意をあらわにする者は、何人も三年から十五年の禁固刑に処するものとする

 

(スペイン)国王、王妃、その先祖、またはその子孫を中傷、侮辱した者は、最高2年間の禁固刑に処されうる

 

(デンマーク)君主は通常の名誉毀損罪(最大4か月の懲役を定めるデンマーク刑法第267条)によって保護されており、現行の君主が名誉毀損の対象である場合、同法第115条は通常の刑罰を2倍にすることを定めている。王配、王妃、王太后、王太子が対象の場合、罰金を50%増額することがある

 

(オランダ)国王、王妃、王位継承者とその配属者、摂政に対する不敬罪が2020年1月1日をもって撤廃された

 

― 昭和天皇 ―

名は裕仁(ひろひと)と言い、大正天皇の第1皇子。大正天皇の逝去とともに践祚即位し、満州事変以後の一連の戦争(所謂15年戦争)と敗戦、憲法改正による象徴天皇制への移行、経済復興と高度経済成長という激動の時代を体験なさっている。在位期間(1926-1989)は62年余に及び、歴代天皇のなかでもずば抜けて最長であり、この記録が破られることは、恐らくないであろう。

学習院初等科終了後は、東宮御学問所(総裁は海軍大将東郷平八郎)で、倫理学を杉浦重剛(すぎうらしげたけ)から、歴史学を白鳥庫吉(しらとりくらきち)から学んでいる。いわゆる帝王学というやつである。

戦前の昭和天皇の政務に関する基本姿勢というのは、国務大臣の輔弼に従って大権を行使すると意味での立憲君主制を尊重しながらも、天皇の空位化は断固拒否し、寧ろ元首としての役割を積極的に果たすというものだった。

1928年には、関東軍高級参謀河本大作等による張作霖爆死事件、所謂満州某重大事件が起こっているが、この事件の処理を巡って田中義一首相は、前後矛盾する上奏をおこなっている。これに昭和天皇は激怒され、翌年には田中内閣は総辞職に追い込まれている。

しかし時代は急展開し、”国家改造”を求めて独自の行動を開始していた軍部や国家主義者は、天皇の国務と統帥への積極的関与を、自由主義的な傾向をもつ側近グループによるものだとして、”君側の奸”への攻撃を強めていく。

こうした中で、天皇とその側近は、立憲主義的原理の尊重と天皇大権の能動的行使をどう調和させ、そして軍部などの急進派の行動を統制していくという難しい舵取りを迫られることとなる。二・二六事件においては、天皇は当初から反乱軍の即時鎮圧を強く主張し、動揺していた陸軍首脳部もようやく鎮圧を決意し、反乱は収束へとむかった。

こうして天皇は国防については立憲主義的な原則を尊重する姿勢を取りつつ、統帥については能動的に振る舞うこととなる。1937年に日中戦争が始まると、天皇は、英米との正面衝突を回避するため、軍部の独走を抑えんとしながらも、武力による勢力圏の拡大を黙認してしまった。

こうして軍部の側は、既成事実を一つ一つ積み上げ、後戻りのできない所まで日本を追い込み、国策決定の主導権を確保していくのである。

 

― 現人神 ―

“現人神”とは”この世に人間の姿をして現れた神”という意味であるが、文部省が1935年に編纂した「國體の本義」では以下のように述べられている。

天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。

昭和戦前期には、天皇は現人神であると言われていた。私が小学生の折、クラス担任をしてくださっていた女の先生は、天皇は現人神であるという教育を受けてこられたなかで、「現人神様はトイレに行かないのかしら」と不思議に思ったと話されていた。”天皇=現人神”に関する、ちょっと面白い論説を毎日新聞に見つけたので、御案内しておく。

天皇が現人神といわれた昭和戦前期について(画像は『毎日新聞』のスクリーンショット)
天皇が現人神といわれた昭和戦前期について(画像は『毎日新聞』のスクリーンショット)(画像はスクリーンショット)

 

― 昭和維新 ―

1920年代から1930年代前半にかけては、昭和金融恐慌や世界恐慌による経済の悪化、排日移民法や張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。

特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を過っている(と彼らには見えた)元老・重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事件としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。

『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けていたのが特徴である(「天皇親政」を唱えたことで、「今の指導者を排除した後どうするか」について論じることは天皇の統治大権を犯す「大権私議」にあたるということにもなった。

たとえば「昭和維新実現の為荒木貞夫を首相に」と考えていても、「天皇に強要して荒木に大命降下させる」ことはそれ自体が謀反になる、という奇妙な倫理に撃ち当たってしまう。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫った後の計画を持っていなかった(そもそも、皇居そのものを占領するところまでは実行されなかった。新国家の指導者として、事件の黒幕の1人とされる真崎甚三郎に期待していた者もいたが、彼が動かなかったことで梯子を外された格好となった)。

片山杜秀は、昭和維新的な思想を持ちながらついに直接行動に出ることはなかった安岡正篤について「安岡の『錦旗革命論』はその論理においてなかなかに過激だし、彼は最後まで『錦旗革命論』を裏切ってはいない。

しかしその革命論は、現実に対して厳格に適用されれば、日本では天皇ただ一人を除いて革命を起こせなくなるという結論に帰結し、それ以外の下々の者が勝手に革命を起こそうとするなどあってはならないということになる」と述べている。戦後においては「右からの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線であり、スローガンとなった。

 

― 昭和維新の思想と天皇観 ―

昭和維新の思想としては、例えば二・二六事件における精神的指導者である北一輝の著した『日本改造法案大綱』には、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減などの、当時としては進歩的な政策が並ぶ(なお、この多くはGHQ、またはその意向を先取りした日本政府によって第二次世界大戦後に実行に移される)。

また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義した上で「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えている。

北や磯部が実際に思い描いていた「天皇親政」とは、天皇の元に権力が一元化される、すなわち天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生する、と解釈することが出来る。磯部は「天皇の取り巻きである重臣や軍閥、政党や財閥などが独裁を行っている」と言っていることから、彼らから権力を取り上げ、国民の手に権力を戻すことが必要と考えていたと考えられる。

彼らの思想は国家社会主義と分類・紹介される事が多い。しかし、治安維持法廃止までも掲げられていた事により、むしろ軍部単独による階級闘争・暴力革命・非合法手段・強権行使に頼った日本式社会民主主義とも言える。更には反特権階級・反財閥・果ては社会主義や日蓮宗の思想までもが混然としていたとされる。

二・二六事件の後、廣田内閣が設置した思想犯保護観察所の一覧。この他、仏教会等も思想犯保護観察団体であった。二・二六事件の鎮圧の後に、思想犯保護観察法が制定され、昭和維新を掲げる政治団体や皇道派と密接な繋がりがあった宗教団体(大本など)への取締りが強化された。

ただし、経済政策については、統制派と緊密な関係を築き満州国で実務の第一線に立っていた革新官僚・岸信介が北一輝を評価していたこともあり、外地で幾つか参考とされた。

 

― 近衛文麿 ―

こちらは、『ジャパンナレッジ』に従って見てみよう。

軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。

1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。

1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。

だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。

その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。

しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。

太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。

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― 東條英機 ―

まず『首相官邸』ホームページから第40代内閣総理大臣東條秀樹について見てみよう。

∙ 生年月日:明治17年12月30日
∙ 出身地:東京都
∙ 就任時年齢:57歳
∙ 在職期間:昭和16年10月18日~昭和19年7月22日
∙ 在職日数:1,009日
∙ 通算在職日数:1,009日

通算在職日数が1,000日を超えるというのは、戦前の総理では長い部類にはいる。戦前の総理で長いのは桂太郎で2,886日を数え、歴代総理では2位である。

戦後も含め、歴代総理で在職日数が長い順に羅列すると、1位は安倍晋三さんで3,188日、佐藤英作さんが2,798日で3位。令和元年に歴代最高記録を打ち立てた安倍氏については、多くのメディアがこうしたグラフを作って話題にした。

令和2年1月末時点での歴代首相の在任期間トップ10。安倍氏はこの後3,188日まで記録を伸ばすも2022年に起きた襲撃事件により逝去(画像は『政治ドットコム』のスクリーンショット)
令和2年1月末時点での歴代首相の在任期間トップ10。安倍氏はこの後3,188日まで記録を伸ばすも2022年に起きた襲撃事件により逝去(画像は『政治ドットコム』のスクリーンショット)

 

歴代11位は山縣有朋の1,210日、12位は原敬の1,133日。13位は大隈重信の1,040日、14位が近衛文麿で1,035日である。東條は15位で、その後に16位の松方正義が943日で控える。なお田中角栄は886日を数え、歴代18位である。

そして戦前の総理だけをみると、東條は、桂太郎、伊藤博文、西園寺公望、山縣有朋、原敬、大隈重信、近衛文麿に続いて第8位ということになる。

太平洋戦争のきっかけとなった1941年12月8日未明の真珠湾攻撃。敗戦が不可避となり、結果的に在留邦人1万人近くが犠牲となった1944年7月のサイパン島陥落。そのどちらにも、東條は首相として立ち会っている。

東條が首相になった折には、すでに真珠湾攻撃は決定事項であり、昭和天皇は首相になって日も浅い東條に、こうお尋ねになった。

 

「今回の戦争の目的はなんぞや」。

 

東條答えて曰く、「それは目下研究中であります」

 

どこの世界に、戦争目的も定まらないまま、あのダイソレタ戦争に突っ込んでいくバカがいるのだろうか? 戦争目的が先にあって、それを達成する方法として「戦争以外にはない」となって初めて「戦争をしましょう」となるのが、真艫(まとも)な世界での話なのである。

サイパン陥落で、なぜ敗戦が不可避だったかと言えば、アメリカ軍がサイパンを拠点にB29を飛ばし、日本への空爆を日帰りで行えるようになるからである。戦争映画で必ず出てくる空襲というのは、こうして始まっているのである。戦争というのは、始めるよりも終わり方が、はるかに難しい。

サイパンが陥落した時点で、即座に無条件降伏をするべきであったし、それ以外の選択肢なんかなかった。ところが日本軍は、このサイパン陥落の後に、神風特攻隊とか人間魚雷とか、正気を疑うような真似を始める。

東條英機は、本土決戦に備えて、女性や子供たちに竹槍で戦う訓練を命じている。ヤクザなんかよりもずっと恐ろしいのは、狂信的に神がかりな人間である。

1937年7月以降の日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、内地での戦災死亡者約50万人、合わせて約310万人となっているが、大半はこのサイパン陥落以後のものである。

松岡洋右あたりのことは毛嫌いしておられた昭和天皇であるが、東条英機に対しては全幅の信頼をおいておられたし、東條もまた、昭和天皇には極めて律儀であった。

東條について、さらに詳しいことは『帝国陸海軍史研究会』の記事を御覧いただきたい。

 

― 紀元二千六百年 ― 

明治以前は天皇は京都御所におられたが、明治天皇が江戸城に入ると、江戸城が東京城になった。東京城は皇城、ついで宮城に改称され、1948年以降は皇居と呼ばれている。

日本書紀では、西暦の紀元前660年に、神武天皇が橿原(かしはら)で即位したことになっている。この年を日本の建国元年とし、これから2600年目にあたる1940年(昭和15年)に植民地を含む全国各地や満州国で記念事業や行事が行われたが、その最大のものは、東京の宮城前広場で11月10日と11日に行われた”紀元2600年式典”ならびに”紀元2600年奉祝会”であった。

この2日間の行事のために宮城前広場には京都の紫宸殿を模した仮宮殿が建てられ、11月10日には首相の近衛文麿の寿詞朗読、君が代斉唱、天皇の勅語朗読、紀元二千六百年頌歌斉唱、万歳三唱があり、翌11日は高松宮の奉祝詞朗読、天皇の宣旨朗読、奉祝舞楽”悠久”の演奏、国民歌”紀元2600年”斉唱、万歳三唱があった。

 

― 昭和天皇の戦争指導 ―

国家が戦争目的を達成するには、政略と戦略の両者を統合して行うことが不可欠となるが、戦前の日本では天皇が重要な役割を果たしていた。戦前の日本の国家機構では、戦争指導という観点から見た時、国務と統帥の分裂という深刻な弱点が内包されていた。

明治期のかなり早い段階から、軍隊に関する指揮権統帥権は、天皇に属する大権であり、政府の関与を認めないという考え方が成立していた。1878年には、参謀本部が陸軍省から、1893年には軍令部(陸軍の参謀本部にあたる)が海軍省から、それぞれ独立し、作戦について天皇を補佐する統帥部が、政府のコントロールから離れたのである。

結果として、国務が統帥を統制して、一元的な戦争を行うことは著しく困難になってしまった。日清・日露の両戦争においては、天皇が臨席する御前会議が実質上の戦争指導機関となり、この会議に列席した首相や外相あたりが、作戦至上主義の軍部を抑えて、政略優位の戦争指導を行った。

1930年(昭和5年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり、明治憲法の第11条に言う”天皇は陸海軍を統帥す”の意味するところが、、軍令事項(国務大臣の輔弼が必要でない軍令的専権事項)なのか軍政事項なのか、それとも両者を含むものなのかという解釈をめぐって争われたのが、所謂統帥権干犯問題である。

日中戦争が始まると、1937年末に大本営が設置されているが、国務と統帥の統合を図り、重要国策を審議・決定するために新たに設けられたのが、大本営政府連絡会議である。そして特に重要な国策を決定する際には、天皇の臨席を仰ぎ、御前会議となった。

しかし、大本営政府連絡会議においても、軍部は統帥権の独立を楯に、いかなる理由であれ、政府が作戦指導に関与することを極力阻止したし、重要な軍事情報がこの場で開示されることもなかった。また統帥部の内部でも、現在の日本における総務省内の旧自治省と旧郵政省の対立宜敷、陸海軍が分立して対立を繰り返していた。

昭和天皇は大元帥として、独走しがちな軍部を統制している。天皇が発する統帥命令は、陸軍の場合は大陸令、海軍の場合は大海令と呼ばれたが、これの裁可にあたっては、天皇は疑問点をただし、自身が納得するまで裁可することはなかったのである。

大本営が設置されると、天皇は統帥部からの様々な上奏を受けることになるが、その主なものは、作戦事項に関する上奏(作戦上奏)と、戦況に関する上奏(戦況上奏)である。こうして天皇のもとには、首相や国務大臣が一瞥すらできない最高度の軍事情報が集積され、それに依って戦略的情勢判断を行うことが可能となったのである。

確かに、一元的で統一的な戦争指導が十分でなかったことは否めないが、あれだけの長期の総力戦を遂行できたのは、昭和天皇という存在を抜きに考えることはできない。もしもこの時期、秋篠宮のような唐変木(blockhead)が天皇であったなら、間違いなく日本という国は、もう存在しなかったであろう。そう考えると、背筋が寒くなるのを覚える。

 

昭和天皇はとても聡明な方で、軍部に対しても、鋭い意見や質問を浴びせておられる。そのひとつを紹介しておこう。

昭和天皇は、軍部の上層部の連中にこうお尋ねになる。

 

「お前たちは、どうして台湾銀行に(当時台湾は日本の領土の一部だった)、あんなに巨額な預金をもっているのか。とてもお前たちの給料で作り出せる金額ではないが」

 

皆、言葉を濁してまともに答えることができなかった。

では、彼らに代わって私が答えを述べよう。その金は、東條が軍部で頂点に上り詰めるために、ばら撒いたものである。日本は満州国を作り、そこでアヘンの密売により巨利を得ていた。そのアヘン密売を取り仕切っていたのが、甘粕事件で有名となった東条の腹心、甘粕正彦である。

甘粕事件というのは、関東大震災直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一の3名が不意に憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件である。

これは冤罪で、憲兵本部の組織的関与を隠蔽するため、甘粕はいわゆるスケープゴートにされてしまったという話もあるようだが、今はそんなことはどうでもいい。

いずれにしても、甘粕はこの事件であまりにも有名になりすぎ、以後は裏の世界で生きていくことを運命づけられてしまった。甘粕は士官学校の恩師である東條に心酔し、喜んで汚れ役を一手に引き受け、満州でのアヘン密売で得た金を、足繁く東京の東條邸に運んでいるのである。

当時満州では、巷間、”満州の昼は満州国が支配し、満州の夜は甘粕正彦によって支配される”と囁かれていた。

日露戦争の折には日英同盟を結んでいた。英国が中国でアヘンの密売で巨利を得たというのは、世界史の教科書に出てくる有名な話であるが、英国のよき生徒である大日本帝国も、これに倣ったのである。
大日本帝国の戦争犯罪というなら、しばしば虐殺された人数が誇張される南京大虐殺なんかではなく、まず第一に中国人をアヘン漬けにして巨利を得たということが問題にされるべきと思われる。

1945年8月20日、ハルビンで迫りくるソ連軍の軍靴の足音を聞きながら、甘粕は青酸カリで服毒自殺している、享年54歳。こうして、日本の満州におけるアヘン密売の話は歴史の闇に葬られた。

なお、満州でのアヘンの密売の話については、以下の記事や動画も参考にしていただきたい。

『現代ビジネス』昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」(魚住 昭 2016.07.31)

『YouTube』oarm roya ― 東条英機と関東軍と満州統治とアヘン売買の密接な関係

昭和天皇の戦争指導に関するとてもよい動画がYoutubeにあるので、ご案内してみたい。


 

 
― 大東亜共栄圏 ―

これについて、『Wikipedia』に依って見てみたい。

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん/旧字体: 大東亞共榮圈/英語:Greater East Asia Co-Prosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity Sphere)は、大東亜戦争(連合国側呼称・太平洋戦争)を背景に、第2次近衛内閣(1940年〈昭和15年〉)から日本の降伏(1945年〈昭和20年〉)まで唱えられた日本の対アジア政策構想である]。

 

大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので、欧米帝国主義国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張だった。東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった。

 

先立つ1938年9月の満洲事変当時には「日満一体」、11月に第1次近衛内閣が日中戦争の長期化を受けて「東亜新秩序」の建設を声明しており、この時には日本・満洲・中国に限定された構想にすぎなかったが、南進論が強まる中で「日・満・華」に東南アジアやインド、オセアニアまでの大東亜共栄圏構想が生まれた。

 

大東亜共栄圏は、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域」を指す。第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」(1940年7月26日)に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた。これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する。

 

アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、日本・満洲・中国・フィリピン・タイ・ビルマ・インドを中心とし、フランス領インドシナ(仏印)、イギリス領マラヤ、イギリス領北ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、オーストラリアによる政治・経済的な共存共栄を図る政策だった。

 

日本は共栄圏内において日本語による皇民化教育や宮城遥拝の推奨、神社造営、人物両面の資源の接収等をおこなったこともあり、実質的な独立を与えないまま敗戦したことから、日本もかつての宗主国と同じ加害者であるという見方がある。

 

一方で、日本が旧宗主国の支配を排除し、現地人からなる軍事力を創設したことが戦後の独立に繋がった、よって加害者ではなく解放者だったという評価や、基本的には日本はあまり良いことをしなかったとしつつも、大東亜共栄圏下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限等)が行われたため、旧宗主国よりはずっとマシな統治者だったという見方もある。

 

また計画の曖昧さ、政府と軍部の調整不十分により、皇民化教育や宗教政策は不完全なまま終わり、現地では日本語や宮城遥拝は定着しなかった。

 

1943年(昭和18年)7月1日の厚生省研究所人口民族部(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があると記されているが、欧米列強が詳細な長期計画に基づいて実行した植民地主義による支配とは異なり、大東亜共栄圏は曖昧な計画で実現に疑問が指摘されているなど、2022年時点でも議論が続いている。

 

肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者トインビーが1956年10月28日の英紙『オブザーバー』に発表した以下のような分析が知られている。

イギリスの歴史学者からは、肯定的な評価も(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)
イギリスの歴史学者からは、肯定的な評価も(画像は『Wikipedia』のスクリーンショット)

 

終戦後にはオランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、インドネシアやインドシナ、更にはインドなどでも日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。

日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の高まりにより旧宗主国による植民地支配の終焉へとつながったとする見解もしばしば主張される。一方でフィリピンのフクバラハップやベトナムのベトミンのような現地住民による抗日ゲリラもしばしば発生しており、これらが後の独立運動に与えた影響も大きい。

 

第13話の最後は、YouTubeで紹介されている『紀元二千六百年』という国民歌で締めくくろう。

【解説】
昭和15年(西暦:1940年)は、日本書紀に記された初代・神武天皇の御即位から2600年を迎える記念すべき年として、日本全国で盛大にお祝いされました。この「奉祝国民歌」は、前年の昭和14年に当時の内閣奉祝会と日本放送協会の企画により誕生したもので、歌詞と曲は国民からの応募によるものでした。(歌詞はなんと約1万8,000もの応募があったそうです)
それぞれ、歌詞は教科書出版所店主、曲は音楽教論のものが選ばれました。また、レコードは6社競作で製作され、全部で約60万枚が売れる大ヒットを記録しました。

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★【皇室、徒然なるままに】尊王論の物神化としての菊のカーテン、ここまでの内容です。

第11話・中篇その1=王政復古と尊王論
【建武の新政ー失敗した王政復古】

【江戸期の尊王論】
― 朱子学 ―
― 水戸学 ―
― 浅見絅斎 ―
― 光格天皇 ―

第12話・中篇その2=尊王思想が生んだ大日本帝国

【江戸期の尊王論】
― 尊皇攘夷運動 ―

【尊王論が生んだ大日本帝国】
― 律令制の復活 ―
― 福沢諭吉の皇室観 ―
― 伊藤博文の皇室観 ―
― 明治天皇 ―
― 乃木希典の殉死 ―
― 大正天皇 ―
― 御真影 ―

(理学博士:西村泰一/編集:エトセトラ)

 

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『ジャパン・アーカイブズ』紀元二千六百年式典の昭和天皇

『Wikipedia』不敬罪

『毎日新聞』余談 ― 天皇が現人神といわれた昭和戦前期…

『ジャパンナレッジ』近衛文麿

『政治ドットコム』歴代首相在任期間に見る – 長寿政権と短命政権

『帝国陸海軍史研究会』東条英機陸軍大将について

『YouTube』oarm roya ― 東条英機と関東軍と満州統治とアヘン売買の密接な関係

『現代ビジネス』昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」

『Wikipedia』甘粕事件

『首相官邸』第40代 東条英機

odack3508 ― 野村萬斎 扮する昭和天皇が杉山元を叱責

『YouTube』 oarm roya ― 東条英機と関東軍と満州統治とアヘン売買の密接な関係

『現代ビジネス』昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」

『Amazon』太田尚樹著 東条英機と阿片の闇 (角川ソフィア文庫) 文庫

『Wikipedia』大東亜共栄圏