【皇室、徒然なるままに】第4話 インターナショナルスクールを通して小室圭を読み解く・後編 西村泰一

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完成までに10年の月日をかけてつくられた皇居前の楠木正成像(画像は『VISIT CHIYODA』のスクリーンショット)』
小室圭さんが日本史を学んだのが小学校までだとしたら、皇居前の銅像が誰なのか、ご存じだろうか(画像は『VISIT CHIYODA』のスクリーンショット)』

このたびの第4話は、小室圭君が6年間通ったというカナディアン・インターナショナルスクール(Canadian International School 略称:CIS)についての《後編》となる。先の《中編》では、高度な専門知識が求められる「弁護士」という仕事に就くにもかかわらず、圭君の言語処理能力に些か不安があると論じてみたが、今回の《後編》では、漢文を習うことなく、また、日本史の知識が小学校止まりであることへの不安についてとなる。

 

本題に入る前に、日本の金融庁が「令和3年度 日本及び主要国におけるインターナショナルスクールに関する調査」という興味深い報告書を発表していたので、そちらをちょっとご紹介してみたい。

アンケート調査に協力したのは、日本にあるインターナショナルスクールに子供を通わせている外国籍の大使館員、ITエンジニア、会社員、会社経営者、駐在員向け不動産会社経営者など。その14ページ目に気になることが書いてあった。

生徒の7割が日本人というインターナショナルスクールも存在する(画像は『金融庁』のスクリーンショット)』
生徒の7割が日本人というインターナショナルスクールも存在する(画像は『金融庁』のスクリーンショット)』

安定した経営のため、裕福な日本人をターゲットにしたのではないかと想定されるインターナショナルスクールが多々存在し、「7割が日本人」「入学時の英語力は不問」という所もあるという。そうなると授業言語が英語と日本語の混合となり、語学レベルの低い生徒に合わせた授業や、カリキュラムの質の低さが問題になる。

最も重要な中学校や高校の数年間に、日本の学校で思ったように学力を伸ばしてもらえないと、帰国後に母国のトップ大学に進学することが難しくなる。これは大きな問題だろう。しかし、多くの学校がホームページで「生徒の国籍比率」を明らかにしていないそうだ。

仕事の関係で日本に暮らす欧米人は「もっとレベルの高い授業を」「情報をもっと明らかに」と不満を感じ、しかし学校側は「日本人生徒を入れたほうが経営が安定する」と考えてしまう。英語がよく理解できない生徒に基準を合わせ、誰のためのインターナショナルスクールなのかわからなくなっている学校も、実は少なくないのだろう。

もっとも、公開されている写真から国籍比率は大体わかる。圭君が学んだCISはどんな雰囲気だったのか、こちらは校外学習の様子を紹介する写真を、個人が特定できないよう加工したものだ。国籍はともかく雰囲気はわかった気がする。

予想以上に東洋系が多いインターナショナルスクールのようだ(画像は『CIS』のスクリーンショット)
予想以上に東洋系が多いインターナショナルスクールのようだ(画像は『CIS』のスクリーンショット)

 

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さて、ここからが《後編》の本題となる。

漢文の授業など、あるわけもないインターナショナルスクール。だが「日本語をマスターするには、漢文もちゃんと勉強しなければならない」というのが私の持論である。確か中学3年から本格的に漢文を教えて頂いた記憶があり、そういった意味でも、私は中高6年間在籍した洛星にはとても感謝している。

古代中国の文語体の文章のことを漢文といい、四書五経といった中国の古典は、すべてこれで記述されている。この漢文によって、日本、朝鮮、そしてベトナムは、中国を戴く東アジア文化圏とでもいうべきものを形成していた。日本で習う漢文とは、要するに元々の漢文を日本語として読み下す技術であり、朝鮮なら朝鮮語にして、ベトナムならベトナム語にして学ぶわけである。

昔の日本の知識人にとって、勉強といえば漢文を読み解くことだった。江戸時代に侍の家に生まれると、3歳ぐらいから論語や孟子あたりを毎日素読させられ、そのうち殆どを記憶してしまうことから、論語や孟子、そして漢文が自らの血となり肉となる。こんなんだから、昔の人は漢文を読むだけでなく、書くこともできた。

森鷗外(1862ー1922)は本名を森林太郎というが、彼は6歳で「論語」、七歳で「孟子」の素読を学んだ。8歳で藩校養老館に入学し、四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩 経・礼記・春秋)、左伝、国語、史記、漢書を復読。こうして文人・森鷗外の土台が築かれることになる。1884年から1888年までのドイツ留学では、日記の多くを漢文で記していたそうだ。

また、名将か愚将かは議論が尽きないところではあるが、乃木希典(1849-1912)が第一級の文人であったことは疑う余地はない。乃木神社には「乃木三絶(金州城下の作・爾霊山・凱旋)」として有名な漢詩の石碑があり、将軍としての心情やその時々の状況がしのばれる漢詩や和歌は、これまで250篇も確認されているという。

250篇もの漢詩や和歌を残していた乃木希典。乃木神社には漢詩の石碑が複数建てられている(画像は『乃木神社』のスクリーンショット)
漢詩や和歌を多々残していた乃木希典。こちらの石碑は乃木三絶のうちの「金州城下の作」(画像は『乃木神社』のスクリーンショット)

 

漢字というのは単なる表記法ではない。それは文化であり、四書五経をはじめとする漢文として日本が輸入し、かつ日本語を根本から変えてしまった。英語もかなり外来語として取り込まれたが、漢語はその比ではない。懲罰、森羅万象、羞恥、義理、起死回生、覇権といった熟語の本当に多くが中国由来なのである。

日本人が作った漢字もあり、それは国字と呼ばれている。辻褄(つじつま)、搾取の搾、癇癪の癪、労働の働、笹、樫(かし)、凧(たこ)、峠(とうげ)、襷(たすき)、噺(はなし)、匂い、鰰(はたはた)なんかは、みな国字である。

“喋” は中国では「ふむ」 という意味で、口数が多いことを “喋喋” といったため、日本では「しゃべる」に当てた。同じく “説教” は、中国では「経書を説いて理解させる」とか「宗教の教義や故事を説く」という意味の単語であり、「親に説教された」などと言うのは日本独自の用法である。

太平洋戦争の当時は、特に鬼畜米英ということで日本から横文字や外来語を駆逐しようとした。だが、日本人の読み書きにすっかり浸透している漢語を排除するなど、とても不可能であろう。知的な職業につく日本人は、漢語の知識も豊かであることが多い。漢文を学んでいない圭君は、聞いたこともない2文字熟語や4文字熟語を理解できず、苦労しているということはないだろうか。

 

カナディアン・インターナショナルスクール高等部の授業科目に漢文や日本史などあるわけもなく…(画像は『CIS』のスクリーンショット)』
カナディアン・インターナショナルスクール高等部の授業科目から一部を抜粋したもの(画像は『CIS』のスクリーンショット)』

さて、CISのカリキュラムを確認してみたところ、どうやら日本史の授業もないようだ。そうすると、圭君の日本史の知識は、おそらく小学校で習ったままなのだろう。もちろん、NHKの大河ドラマ『太平記』などでも勉強はできると思うが、それも予備知識あってのことだろう。

足利尊氏、後醍醐天皇、護良親王、義良親王、成良親王、懐良親王、北畠親房、北畠顕家、日野資朝、日野俊基、光厳天皇、光明天皇、佐々木道誉、新田義貞、北条高時、楠木正成、足利直義、足利直冬、高師直、「正中の変」「元弘の変」「中先代の乱」「観応の擾乱」……彼はどれくらい知っているだろうか。

小学生なみの日本史の知識で止まってしまい、ご家族との会話にも歴史上の人物が登場しないようなら、圭君は大河ドラマにまず興味が湧かないのではないだろうか?

 

過去には、暗殺された天皇もいた。史実として確定しているのはただ一人で、第32代天皇の崇峻天皇(在位:587ー592)である。蘇我馬子が東漢駒に命じて暗殺させている。こうして推古天皇が日本史上初の女性天皇としてその後を継いだが、興味深いのは、天皇暗殺という重大事件にもかかわらず、大和国の統治に些かの揺らぎも見られなかったことである。

(崇峻天皇の人物については日本書紀も黙して語らないが、嫌われもののあの宮様みたいな性格だった…とかじゃないでしょうね。)

2つの朝廷が京都と吉野に並立した時代もあった。南北朝時代(1337ー1392)である。そういえば圭君は何度か皇居を訪れたと思うが、皇居外苑に佇む8メートルもの高さがある巨大な「楠木正成像」について、一度でも考えたことはあるだろうか?

完成までに10年の月日をかけてつくられた皇居前の楠木正成像(画像は『VISIT CHIYODA』のスクリーンショット)』
完成までに10年もかかった皇居前の楠木正成像(画像は『VISIT CHIYODA』のスクリーンショット)』

完成までに約10年の歳月がかかったという楠木正成像。皇居外苑に建てられた理由は、彼が皇室、そして後醍醐天皇への忠義を貫き続けた鎌倉時代末期の名将だったからである。最後まで天皇側について足利尊氏と戦い、負け戦に挑み、最期は戦場で切腹していた。その忠臣ぶりから、銅像の顔は正面ではなく皇居側を向いている。

 

実在が確認できている第21代天皇の雄略(ゆうりゃく)天皇は、お生まれが西暦418年。万葉集の巻頭を飾るのは、彼が詠んだという「籠もよみ籠持ち ふくしもよみぶくし持ち」で始まる長歌だ。

天皇とか皇室といったものに対する理解も、本来なら、このような日本史や名将たちを学ぶ流れのなかで、なされなければいけない。そういうものがまったくないから、圭君にとって天皇というのは、ただ “一番偉い人” ぐらいの小学生並みの理解しかなく、

「俺を殿下と呼べ!」

などという、馬鹿丸出しの言動に及ぶのである。哀れというしかない。

 

日本の天皇制ほど長く続いた単一王朝国家は他にないと時々耳にするが、実はローマ教皇庁はそれを凌駕する長さを誇っている。初代教皇は紀元前1世紀ごろに実在した聖ペトロで、現在の教皇フランスコは266代目、そして日本の今上天皇は126代目である。

…そういえば、教皇庁のほうも、1378年から1418年までシスマ(Schism)と呼ばれる教会大分裂が起き、ローマとアヴィニョン(フランス)に並立したことがあったよね。このあたり、どこか日本と似ていて面白いですね。南北朝時代とシスマは時期的に重なる部分もあるし。

それでは今週の1曲として、久保田早紀さんの『異邦人』を聞きながら、この駄文を終えようと思う。

 

【皇室、徒然なるままに】第5話 は、菊のタブーって何? (What is Chrysanthemum…Taboo at all ?)という副題でいきたいと考えている。

(理学博士:西村泰一/編集:エトセトラ)

 

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★ここでちょっと西村先生のデザイン画を紹介★

2013年の作品『Absolute Freedom』。こちらは、2015年5月27日から6月8日まで国立新美術館に展示された
2013年の作品『Absolute Freedom Ⅲ』。こちらは2015年5月27日から6月8日まで、国立新美術館に展示された

【解説】
平成の年号の発案者は安岡正篤であるということを総理大臣経験者の竹下登が示唆しているが、安岡正篤を有名にしたのは,彼が1922年に東京大学の卒業記念に出版した”王陽明研究”である。

吉田茂、池田隼人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳を始めとする多くの政治家が彼を師と仰いでいた。皇室とも関係が深く、終戦の折の玉音放送の原稿の作成には、全面的に協力している。東洋思想に造詣が深く、”学問修養とは、優游自適である”の名文句を残している。

ここではその”優游自適”を絵にして見た。ご笑覧いただければ、幸いである。なお埼玉県菅谷の金鶏神社の傍には安岡正篤記念館があるので、時間と興味のある方は一度訪ねてみられるといい。

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

画像および参考:
『伏見桃山 乃木神社』詩碑(乃木三絶)

『VISIT CHIYODA』 皇居・東京駅・日比谷 ― 楠木正成像

『金融庁』令和3年度「日本及び主要国におけるインターナショナルスクールに関する調査」

『CIS』Programs/vision

【皇室、徒然なるままに】第3話 インターナショナルスクールを通して小室圭を読み解く・中編

『つくばリポジトリ』Absolute Freedom Ⅲ