『卜部亮吾侍従日記』1996年日タイ協会・秋篠宮の総裁就任は「例の問題がらみで先送り」って…
宮内庁が17年かけ、計13冊にまとめたという『香淳皇后実録』が、ついに宮内庁のホームページで公開された。朗らかなのにお上品で、とにかくお優しい女性だったという香淳皇后のお人柄がしのばれる内容となっているようだ。
一方、昭和天皇のお人柄に関して、『昭和天皇実録』『入江相政日記』とともに、重きを置かれているのが『卜部亮吾侍従日記』、そして小林忍氏による『昭和天皇 最後の侍従日記』である。
特に、卜部亮吾(うらべりょうご)氏が綴られた日記は存在が2007年に発覚し、朝日新聞社が計5巻にまとめたという。今回はそちらに書かれている、かなり気になる部分について紹介させていただきたいと思う。
Wikipediaによれば、『卜部亮吾侍従日記』とはーー。
卜部日記は、侍従となった1969年12月から死去直前の2002年2月までの32年間、ほぼ毎日記されている。卜部は侍従(広報担当)として、昭和天皇の地方巡幸に常につきそっており、最後の地方巡幸となった
1987年春の伊豆大島(前年に噴火した)訪問にも付き添っていた。また昭和天皇崩御・大喪〈1989年(昭和64年/平成元年)〉前後の動静・内情、特に昭和から平成への代替わりの実務を仕切った当時の経緯と、天皇自身の晩年の姿が判る事で貴重な史料とされる。
日記には、昭和天皇の晩年の闘病生活と先の大戦にたいする悔恨や国民への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる記述が特に重要視されている。特に注目されるのは、昭和天皇が晩年あまり多くを語らなかった過去に対する思いや、靖国神社に対する考えなどが記述されている。
グラフィック系の分析や解説で、いつも筆者を大きくサポートしてくださっている神奈川県在住のHさんが、その侍従日記に関して興味深いブログ記事があることを教えてくださった。
いただいたメールを紹介させていただくとーー。(原文ママ)
『直球和館』さんのブログに、昭和天皇の侍従・卜部亮吾氏と小林忍氏の「侍従日記」から引用したA宮の話が載っていて、興味深い内容だったのでシェアします。
特に朝日新聞出版の「卜部亮吾侍従日記」は現在、品切れ・再販未定のため、このブログ記事はありがたいです。
■『直球和館』2001/08/13 秋篠宮家 その3
以下、私が注目した箇所を抜粋
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卜部亮吾『侍従日記』1985年12月24日
東宮侍従手塚英臣に、秋篠宮のヒゲのことにつき善処方申し入れ。
『小林忍日記』1990年6月30日
四方の写真は正式の記念写真として問題がある。秋篠宮が両手を前で組んでいるのは論外。最高の正装をし極めて改まった写真であるべきところ、こんな姿勢では良識を疑われると言うべきである。従来から秋篠宮は両手を組む癖がおありのようで、そういう写真をよく見る。
『小林忍日記』1993年6月22日
秋篠宮邸前を通ったが、門前の車庫前で秋篠宮妃がお子さんを連れ運転手とお話ししておられたのでお辞儀をした。全く普段着のスラックスにTシャツという姿で、最初は秋篠宮妃とは気づかなかった。
卜部亮吾『侍従日記』1996年4月15日
日タイ協会の前田氏来訪。秋篠宮の総裁就任の件は、例の問題がらみで先送りすることになったと。
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『小林忍日記』でのA宮批判については、yoshiepen’s journalさんに詳しい記事が載ってますので、そちらをご覧いただきたいと思います。
■『yoshiepen’s journal』2020-05-16 忌憚ない秋篠宮批判が見られる小林忍氏著『昭和天皇 最後の侍従日記』(文芸春秋、2019年4月刊)
忌憚ない秋篠宮批判が見られる小林忍氏著『昭和天皇 最後の侍従日記』(文芸春秋、2019年4月刊)で私が気になったのは、卜部亮吾『侍従日記』1996年4月15日の話。
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1996年4月15日
日タイ協会の前田氏来訪。
秋篠宮の総裁就任の件は、例の問題がらみで先送りすることになったと。
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「例の問題」とは何でしょう?
1996年といえば、週刊誌で頻繁なタイ通いがきっかけで「秋篠宮さまには現地に愛人がいる」という疑惑が持ち上がった年。また、クリントン大統領歓迎の宮中晩餐会を欠席してまでタイに飛んだと騒がれたのもその年の4月でした。
しかし、クリントン大統領訪日は1996年4月16日、宮中晩餐会は4月17日です。つまり、侍従日記の4月15日にある「例の問題」とは、晩餐会欠席の件ではないですね。
参照:https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/clinton/in_japan/schadule.html
ブログ「ラブのママ」さんのこちらの記事も気になります。
■『note』2、本妻探し ~どう見ても親戚~ 43 ラブのママ ラブのママ 2024年2月17日
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1996年3月には秋篠宮一家がタイ訪問、4月には秋篠宮が一人でタイ訪問
11月にはチュラボーン王女が来日
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やはり「例の問題」とは「タイの愛人」問題のことなのでしょう。その年11月のA宮誕生日会見で、A宮は「女性問題は根も葉もないこと」と否定してましたが(※)、実際は日タイ協会の総裁就任を先送りせざるをえないほどの問題があったのではないでしょうか。
※参考
秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その7~あくまでも抗った新潮、宮内庁サイドに迎合した文春④
参考:http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-37.html
さらにビックリしたのは、「直球和館」さんのこちらのページ。
秋篠宮家
■『直球和館』2001/08/12 秋篠宮家
宮武外骨『スコブル』1917年 に書かれた池上四郎氏への酷評がすごい。
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かような奴であるから、大阪市長になってすでに3年近いが何一つ良いことをしないで、常に悪漢仲間と共に大阪市を食い物にしているのである。
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などなど。
池上四郎は、実は人々から忌み嫌われていたのではないだろうか(画像は『直球和館』のスクリーンショット)
※記事に登場する赤で囲んだ人物について
大浦兼武: 明治・大正期の日本の官僚、政治家
宮武外骨:日本のジャーナリスト、著作家、新聞史研究家、明治期の世相風俗研究家
(詳細はWikipedia参照)
大阪に地下鉄を走らせ街をいっきに発展させた功労者だと評価されながら、日本の主要な「人名辞典」に、なぜか池上四郎の名はロクに載っていないです。
「これでは紀子さんが自身のルーツを掘られたくないのも頷けます」と神奈川県のHさん。紀子さまは婚約にあたって “宮内庁関係者などからの強い要望で” 川島から川嶋へと姓を変えておられたが、これもそうした意識の表れだったのかもしれない。
なかなかあくどい出世を遂げる、そんな才能に長けている家系というのは、どこにでもいるものだ。ただし、人の口に戸は立てられぬという。デジタルタトゥーも古い図書もある。
西日本の方々がほとんどだが、川島家のルーツについて知っている、調べればすぐわかると言うが、ますます増えているような気がする。
(朝比奈ゆかり/エトセトラ)
画像および参考:
・『Wikipedia』卜部亮吾侍従日記
・『直球和館』2001/08/13 秋篠宮家 その3
・『yoshiepen’s journal』2020-05-16 忌憚ない秋篠宮批判が見られる小林忍氏著『昭和天皇 最後の侍従日記』(文芸春秋、2019年4月刊)
・『note』2、本妻探し ~どう見ても親戚~ 43 ラブのママ ラブのママ 2024年2月17日
・『直球和館』2001/08/12秋篠宮家
・『エトセトラ・ジャパン』「昭和天皇実録」「卜部亮吾侍従日記」についてのご質問内容にKさんよりご回答
・『エトセトラ・ジャパン』池上四郎