【皇室、徒然なるままに】第34話:悠仁君のための「現代生物学への誘い」 西村 泰一
1960年代前半、私が小学校に通っていた頃の話になるが、校長先生は大学で生物学を学ばれた方だった。
時々、その校長先生が先頭に立ってピクニックなんかに連れて行ってもらったことがあるが、とにかく楽しいのである。なぜかというと「この草は◯◯という草で、XX月頃に花を咲かせ、その花粉を媒介するのは△△という蜂で…」と留まるところを知らない。
誰かが草を指さして「これは何ですか」と聞くたびに、懇切丁寧に説明してくださる。今、大学で生物学を勉強したという方とピクニックに出かけても、こうしたことは期待できない。生物学という学問が大きく変貌してしまったからである。今回はそうしたことについて、丁寧にゆっくりと説明していこうと思う。
【博物学としての生物学】
上記の校長先生が勉強されたのは「博物学としての生物学」である。博物学というのは、動物でも植物でもなんでもいい、兎に角それらの種類や性質を徹底的に記録し、整理していく学問のことを言う。早い話、ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルの「昆虫記」を思い浮かべてもらえばいいだろう。あるいは分野は違うが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」を思い浮かべてもらってもいい。
昔は生物学を勉強するというのは、動物や植物に関する博物的知識を身につけることを意味した。博物館というのは、特定の分野において価値のある対象、学術資料、美術品等を購入・寄託・寄贈などの手段で収集、保存し、それらについて専属の職員である学芸員(キュレーター)が研究すると同時に、来訪者に展示の形で開示している施設のことを言う。
生物学は博物学を卒業し、すっかり近代化されてしまった。
【顕 微 鏡】
光学というのは、その波動としての側面をひとまず置いておくと、直進、反射、屈折の3法則にまとめられる。古典古代というのは、科学についても結構高いレベルにまで到達していて、地球が球体であることを知っていたばかりでなく、エラトステネス等は、その半径もかなり正確に弾き出している。
アリスタルコス(地動説も唱えていたので、「古典古代のコペルニクス」と呼ばれる)あたりは、それだけでは満足せず、日食や月食を利用して、地球と太陽の間の距離や地球と月の間の距離も弾き出しているが、残念ながらこちらは現在知られている数値から大きくかけ離れている。
アリスタルコスはどこで間違えたかというと、古典古代の人達は光の直進と反射の法則は知っていたが、屈折の法則については全く失念していた。太陽から地球に届く光は、直進して届くのではなく、大気圏に突入する折に屈折するのである。
近代になって、アリスタルコスの残したデータと方法で、この屈折を考慮にいれて計算し直した方がおり、かなりいい数値が得られた。アリスタルコス、恐るべしである。
顕微鏡というのは、光学の屈折の原理を使うことで、肉眼では見えないものを、肉眼で見えるように拡大する装置である。最初の顕微鏡は、1590年、オランダのミデルブルフで眼鏡製造者サハリアス・ヤンセンと父のハンス・ヤンセンが作ったと言われている。ガリレオ・ガリレイはこの顕微鏡を改良し、昆虫の複眼を描いている。
オランダの科学者アントニ・ファン・レーウェンフックは、顕微鏡で初めて微生物や精子を観察し、「微生物学の父」とよばれている。肉眼では見えない微生物が存在する可能性は、紀元前6世紀のインドのジャイナ教の経典に既に述べられている。顕微鏡によって、微生物学が可能となったのである。
なお微生物というのは、後生動物、原生動物、真菌類、細菌(バクテリア)など様々な生物が含まれるが、もっとも多いのはバクテリアであろう。なお、フランスのルイ・パスツールは1861年に『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定した。これも顕微鏡があったからできた話である。
【電磁気学の成立】
力学や万有引力の法則が成立したのは17世紀の話であるが、電磁気学が成立したのは大分遅く、19世紀の話となる。電磁気的現象としては、次のようなものが古来より知られていた。
・磁石がが鉄を引き寄せる事
・摩擦した琥珀が軽い物体を引き寄せる事
・雷や稲妻
電磁気学と言えば、マイケル・ファラデー(1791年9月22日 – 1867年8月25日)の名前を落とすことはできないだろう。直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立している。
彼は貧しい家庭に4人兄弟の3番目として生まれ、学校にはほとんど通っていない。14歳から7年間、近所で製本業と書店を営んでいたジョージ・リーボーのところに年季奉公に入っている。その7年の間に色々な本を読み、勉強したらしい。
年季奉公の最後の年、当時有名だった化学者のハンフリー・デイビー卿に見出されたファラデーは、科学の世界に足を踏み入れることになる。この化学者はナトリウムやカリウムの発見者としても有名であるが、本人によると「私の最大の発見はマイケル・ファラデー」とのことである。
ファラデーは実験者としての優れた直観に恵まれていたが、ちゃんとした教育を受けていないので、数学は全くできなかった。彼が作った電磁場の基礎理論を、得意の数学を駆使してマクスウェルの方程式にまとめ上げたのは、イギリスのジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831年6月13日 – 1879年11月5日)である。
彼は自分の方程式から、電場の変化は磁場の変化を引き起こし、磁場の変化は電場の変化を引き起こし、これが電磁波として真空中を伝わることを見出した。彼はその電磁波の速度を、マクスウェルの方程式から計算したみたが、それがその数年前にやっとわかった光の速度と見事に一致したのである。
これは彼を大いに驚かせた。音波の伝達速度はきわめて遅いので、その速度を測ることは難しい話ではないが、光はあまりにも速すぎるので、その速度を計測するのに19世紀半ばまでかかったのである。
さて、電磁波の速度が光の速度と一致するというのは、一体何を示しているのだろうか? これは光、即ち可視光線が電磁波に他ならないということを示しているのである。つまり目に見える電磁波が光(つまり可視光線)であり、目に見えない電磁波もあるのではないかという話になる。
この目に見えない電磁波は、テレビやラジオ、あるいは今では手放せなくなった携帯に不可欠のものなのである。可視光線は波長が長すぎて、これでDNAを見ることはできない。一般的に、波長より短いものは見ることができないのである。
そこでジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAを見るのに波長の短い電磁波であるX線を用いて写真を撮っている。これが彼らをノーベル賞へと導いた。この話はもう少し後ですることにしよう。
◆DNAの確立
【メンデル】
メンデルの有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した。
エンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかない(滑らか)かというように対立形質が区別しやすく、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し、さらに花弁のうちで自家受粉する。他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用された。
交配実験に先立っては、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見には不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行った者はいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。
その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14である。
メンデルは、研究成果が認められないまま1884年に死去した。メンデルの今際の際(いまわのきわ)での言葉が今に伝わっているが、それは「いずれ私の時代が来る」というものだった。
メンデルの法則は、1900年にユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクら3人の学者にそれぞれ独自に再発見されるまで、埋もれていた。そこで、半世紀も前にメンデルが「遺伝の法則」として研究し、発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった。
【二重螺旋モデル】
DNAが遺伝子の実体だろうと考えた研究者達はDNAの分析を進めた。その中で物理学を知っている研究者は、直接構造を分析することを考えたのである。
ワトソン、クリック、モーリス・ウィルキンス、それに女性科学者のロザリンド・フランクリンらは別々の研究グループであった。糖鎖と燐酸の鎖が繋がって高分子構造を形成しているらしいことはすぐにわかり、塩基がそれに結合していることもわかった。問題は、塩基が2本の[リン酸ー糖]n の鎖の内側に入っているのか、外側に出ているのかを決めることであった。
ワトソンとクリックのグループもそこを決めかねていたが、そんな時にフランクリンらとディスカッションを行い、彼女のX線解析のデータを盗み見てしまったという逸話が残っている。これによりワトソンとクリックは塩基が2本の骨格の内側に配置されているという二重螺旋モデルとして知られる分子モデルに到達し、1953年にNatureに発表したのであった。
1962年のノーベル賞はワトソン・クリック・ウイルキンスに与えられたのであるが、フランクリンは不幸にもその時には既に亡くなっていたためその栄誉に預かることは出来なかった。しかし、「ワトソン・クリックモデルの構築に最も貢献したのは、ロザリンド・フランクリンだった」と言う人は今でも多いようである。
これ以後の研究は暫くの間、この分子構造から推定される遺伝子の働き、複製と発現が現実に起こっているのかどうか、起こっているとすれば、それはどのような仕組みなのかに集中して進むことになった。そしてこの頃から、そうした仕組みは分子のレベルで説明できなければならないという考え方に傾いていく。現代生物学の幕開けでである。
【現代生物学とは】
DNAの確立によって生物学は博物学を卒業し、すっかり近代化してしまった。まず生物学って一体何だろう。昔は生物学の定義も生物の定義もなかなか一筋縄ではいかなかったのであるが、今は容易い。荒っぽく言って、生物学とは、広くは「DNAという高分子の科学」、狭くは「DNAという高分子の化学」と言い切ってしまって、問題はないと思う。
勿論、将来宇宙のどこかにDNA以外の形で遺伝情報を蓄える生命体が見出されれば、この定義は修正を求められることになるのは間違いないが。
ウイルスはDNAがカプセルに入っているだけのもので、エネルギー代謝は行わないため生物とは見なさないようであるが、微生物学ではこれも取り扱う。単独では自己を複製することはないが、宿主に感染した状態で自己増殖する。またウイルスが置き土産として残したDNAが、進化に大きく関わっていることもよく知られている。
DNAはある条件下で自分の複製をかなり正確に作るという習性があり、これが遺伝を可能にする。同時にこれは「かなり正確」であるが、「完全に正確」とは言えないので、進化を可能にする。
【分 類 学】
生物を体系的に分類するという近代分類学は、スウェーデンのカール・フォン・リンネ(1707年5月23日 – 1778年1月10日)を祖とする。彼の最初の論文は、植物の分類の基礎は花の雄しべと雌しべにあるとするものだった。このように従前の分類学では、その生命体のいくつかの外見的特徴に注目して分類することになる。
しかし、どの特徴に注目するかの選択は恣意的ではないか、あるいはよく言えば、職人芸的ではないかと言われると、ちゃんと反論するのは難しい。科学というのは職人芸的なものを嫌う。
DNAの概念が確立して以降、生物の分類とは、DNAの分類であるということになった。これを実際に行うには、DNAに含まれる情報量は膨大であるので、コンピューターの使用が不可欠である。これはすこぶる科学的で、前述の恣意的なものが紛れ込む恐れは全く無い。
現在この作業は進行中であるが、既存の分類体系の見直しを迫られている群は多く、多くの分野で混乱も生じている。混乱が落ち着くには、まだ相当の時間が必要と思われる。
特にこうした見直しで、単細胞生物の分野で著しい進展があった。古細菌はそれまでに知られた生物すべてと対置すべき、全く新しい群であることが認められた。純粋培養が可能な古細菌の多くは、ヒトから見て極限環境に生息するものがほとんどであり、高度好塩菌、超好熱菌、好熱好酸菌等が知られている。
高度好塩菌は塩湖なんかに生息する。好熱菌は温泉など45度以上の環境でよく活動するものをいうが、100度を超える環境で盛んに繁殖するものも報告されている。硫黄分を含む熱泉では、硫黄が酸化されてしばしば強い酸性になるが、強酸を好む好熱好酸菌はこうした環境に生息する。
古細菌のなかで一番有名なのは、メタン菌だろう。これは嫌気条件でメタンを合成する古細菌の総称であり、動物の消化器官や沼地、海底堆積物、地殻内に広く存在し、地球上で放出されるメタンの大半を合成している。
地球上の全ての生物は、細菌、古細菌、真核生物の3つのドメインのいずれかに分類される。細菌と古細菌は合わせて原核生物とも呼ばれ、真核生物と対比される。
初期の地球上には古細菌と細菌の2ドメインしか存在せず、動物や植物を含む真核生物は古細菌(特にアスガルド古細菌)から遅れて進化したとする説が現在有力である。植物と動物は見た目は大きく異なるが、細胞レベルで見るとDNA複製のメカニズムや細胞膜の主成分など共通性が高い。
【日本人の起源】
日本人の起源は、約1万5千年前から約3千年前にかけ、北海道から沖縄まで広く居住していた縄文人と、その後に大陸から渡来した弥生人が混血したことがDNA解析などから裏付けられてきた。一方、縄文人より古くからいた港川人との関係はこれまで不明だった。
港川人は、1970年に沖縄県で発見された複数の人骨を嚆矢とする。 日本では数少ない旧石器時代の人骨で、出土した場所の地名から港川人と呼ばれる。 身長は150センチ程度と小柄。 肩幅は狭いが下半身の骨格は丈夫で、荒れた土地を走るのに適していたと考えられる。
2021年には港川人の男性人骨(港川1号)のミトコンドリアDNAの全塩基配列の解読が完了し、港川人は現代の日本人や縄文人、弥生人に多く見られる祖先型の遺伝子を持つものの、そのいずれとも特徴が異なっていることが分かっている。
港川人は縄文人、弥生人、現代人の直接の先祖でなく、共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。港川人の顔立ちは、現在の人類ではオーストラリア先住民やニューギニアの集団に近く、港川人は、5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高いと言われている。
DNA解析はこのように、気の遠くなるような古い話にも決定的な説明をすることを可能にする、物凄い力を持っている。これは、地質年代測定における放射年代測定に匹敵すると思われる。
放射年代測定とは、既知の半減期を持つ放射性同位元素の放射性崩壊の量を測定することにより、親物質の絶対年齢を確定する方法である。特によく用いられる放射性炭素年代測定は、1940年代の後半にシカゴ大学のウィラード・リビーによって研究開発され、それによってリビーは1960年のノーベル化学賞を受賞している。
日本人の起源とは関係ないが、遺伝子解析がもたらした驚くべき発見の一つとして、朝日新聞デジタルが2022年12月に伝えた『200万年前の極地に豊かな生態系 「最古」のDNA分析で明らかに』という記事をご紹介しておきたい。
◆悠 仁 君 へ
これから生物学を勉強するのであれば、数学、物理学、化学をよく勉強しておきなさい。昔の博物学時代の生物学と違って、これらの分野は現代生物学に必要不可欠です。
もしも高校生の折に、何か「研究めいたもの」を残しておきたいのであれば、悠仁くんにお薦めの研究テーマがあります。「DNA解析による我が父文仁の由緒の探求」です。
巷間、「皇室のラスプーチン」とか「令和の道鏡」として名高いお父様の由緒には、国民の多くが大変な関心をもっています。単なる憶測ではなく、科学的にこれをはっきりさせることは、とても大切なことです。
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それでは第34話の締めくくりの1曲、『Jam Campus ― THE PARTS OF A CELL SONG | Science Music Video』をどうぞ!
(理学博士:西村泰一/画像など編集:エトセトラ)
【皇室、徒然なるままに】のバックナンバーはこちらから。
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月 洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月 京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月 筑波大学(数学)
画像および参考:
・『朝日新聞デジタル』200万年前の極地に豊かな生態系 「最古」のDNA分析で明らかに
・『Amazon』DNA二重らせん構造モデル 分子構造モデル 塩基対遺伝子 生物科学教材
・『YouTube』 Jam Campus ― THE PARTS OF A CELL SONG | Science Music Video