【YOUR VOICE】川嶋辰彦氏のウィーン滞在の謎 住居は職場IIASAより韓国や北朝鮮の大使館に近かったのでは?

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※ こちらはブログ記事、米国で講師経験1年の川嶋辰彦氏、学習院でいきなり助教授に? 大学が「その他」に明記しなかった活動も謎 に対し、読者様から寄せられたコメントです。

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■1960年代後半といえば、アメリカと北朝鮮は極度の緊張関係にありました。

実際に1968年にはアメリカの情報収集艦「プエブロ」が北朝鮮に拿捕されるという事件もあります。https://gendai.media/articles/-/105288

 

■辰彦氏は家族連れで渡航しているとのことですが、なぜなのか疑問に思っていました。

経済的にも苦しいでしょうし。そこで、発想を変え、「和代さんが渡航する必要」という可能性があると思うようになりました。なにしろ、この時代であり、また、朝鮮半島とは深い繋がりをお持ちの方のようですから。

 

■まず、ペンシルベニアは、首都ワシントンにとても近いです。情報活動にはなかない良い場所のように思えます。

 

■また、ウィーンは、スパイ天国という話です。

紀子さんが通ったアメリカ・インターナショナル・スクール・オブ・ヴィエンナの近くに住居があったと仮定するなら、市街地の北西側になります。地理的に、市街地から大きく南側に離れている辰彦氏のIIASAを考えると、大変不便なことになります。住居は、むしろ、大韓民国や北朝鮮の大使館に寄っている場所に見えます。

※IIASAの所在地について:

・IIASAのサイトにもアクセスは書いてありますが、とても不便そうです。
・「ウィーン南駅からバスで30分」(IIASA出張報告より)
https://www5c.biglobe.ne.jp/~acidrain/pagea2.htm

(コメント欄:きさらぎさんより)



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4件のコメント

  • 生まれる前の事で、1960年代後半の雰囲気がイメージしにくいため、ググってみました。
    日本が経済大国となり世界へ存在感を示し始めた反面、公害、学生運動、安保闘争など、社会の様々なレベルで問題が紛糾し、草加、壺教など参考宗教の勢いも爆発的だった、そして暗躍するスパイ…激動の時代ですね。

    ところで、公害といえば昭 電ヱの…。少し前、ラジオで聞いたのですが、公害資料館の運営が危機的とのこと。
    資料館の衰退とともに、公害企業との闘いのノウハウまでが失われると危惧されていました。被害者が一丸となって働きかけなければ、道が開くこともない…でも、そもそも被害者は接点の無いバラバラの一般人。団結が困難な上、企業が話をきいてくれず自治体に働きかけても第三者立場のため反応は鈍い…万難廃して戦ってきた歴史と、積み上げたノウハウが重要なのだ、と切実に訴えられていました。
    皇室問題に取り組む小魚組も、同じ問題を抱えていると思いますし、御威光がからむ企業として病根が重なる部分もあり…。
    原発や、有機フッ素化合物など、現在進行形で発生する公害もあり、これも日本にとって重要な議案のひとつだと思いました。

  • ウイーンから平壌を往復していたのではないか?とのお説に、そうかもとお答えします。

    1975年から壁崩壊直後まで、平壌と東ベルリン間には、北朝鮮の航空会社・朝鮮民航JSが直行便をモスクワ経由で飛ばしていたのです。70年代はソ連製ツボレフ154、後にイリューシン62でした。北朝鮮からは東ドイツに労働者が多数送りこまれていたので、需要はありました。
    列車でウイーンから東ベルリンまでは西ドイツ、西ベルリン経由にすると、西側からするとあくまで国内移動になるので(東ドイツを外国とはみなしていない建前)、チェックが西側出国時にはなかったので、東ドイツ側の駅に停車後、乗り込んでくる東ドイツの係官によるチェックと、西ベルリンの検問所から東ベルリンに入るときに、東側のチェックだけがありました。
    ただし東の空港へ直行するとなると東ドイツ内を通過するためのトランジットビザ取得が車内で簡単に済む専用連絡バスがありました。このルートでなら、日本政府には一切知られずに平壌まででもウイーンから極秘往復できたはずで、東ドイツやモスクワでの出入国チェックの痕跡までも消したい人間ならば、北朝鮮が別に自国民用の旅券を用意し、東ベルリンの北朝鮮大使館で一家の日本旅券と交換に渡されていたのかも知れません。パリで撮影したとの写真に合成疑惑があるのも、北朝鮮が作成し、西欧を旅行しているかのように見せかけ、北朝鮮に呼んでいた可能性につながります。欧州旅行中にリクルートされた拉致被害者も、このルートで連れ込まれたとか言われていた記憶があります。
    K子さん世代ではまだ送還事業があったので親族で北朝鮮に渡った者がいた可能性はあります。
    もしスパイ活動でヘマをしでかし、北朝鮮滞在中に暴かれ、娘を人質にとられ、代わりに、あの大韓航空機事件の女のような、日本人工作員に成りすます教育を受けた女をK子として日本に連れて行くよう、入れ替わりの指示でもされていたら?と考えれば、キムK子さん(仮名)の日本語がかなりおかしい謎や、ともすると朝鮮式発音になってしまうハングル発想の謎も解けるような気がいたします。「工業団地」の意味を知らなかったというのは、北朝鮮には韓国との合弁事業だった、開城工業団地ができるまではその概念がなく、キムK子さんには初めて聞く日本語だったから、あんな受け答え(「工業団地にはどのような人が住むのでしょうか」)になったのではないかと疑っています。結婚後、夕食には週三回もの朝鮮料理を所望するとの記事も、日本育ちの日本人ならばあり得ない話ばかりです。
    このような仮説は、ドンデモ話のようにも見えるでしょうが、逆に北朝鮮が日本の最頂点に諜報員を送り込もうとしない方がむしろ不自然であり、父親の左翼運動の過去からみても、母親の出身地含め、総合的に勘案すれば、なきにしもあらずのことのように思えてくるのです。

  • >そこで、発想を変え、「和代さんが渡航する必要」という可能性があると思うようになりました。なにしろ、この時代であり、また、朝鮮半島とは深い繋がりをお持ちの方のようですから。

    ・1972年までペンシルベニア大学関係で在米
     よど号ハイジャック事件は、1970年(昭和45年)3月31日

    ・1977-1979年、国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリアに在住
     1970年頃から80年頃にかけて、北朝鮮による日本人拉致が多発(外務省HP)

    偶然にも同じ時期のようです。
    海外での拉致に関しては、日本人女性の積極的な接近により安心させてウイーンへ誘われたと報道されていました。
    日本語と韓国語が出来れば、国家ミッションとの意識は無しでも善意のつもりで宿などのお世話をする事も不可能ではなかったかも。

    常人には想像の付かない数十年単位での凄い策謀が在ったかもと恐ろしさを感じました。

  • 子育てについて問われた川島和代さんの「規制して誘導した」の発言、言葉遣いに、かねてから私は違和感を覚えました。
    さらに、婚礼の韓流臭の衣裳、教会マークをデザインしたかのティアラを知るにつけ、疑念は確信にかわりました、

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