【皇室、徒然なるままに】第91話:義理の叔父と瓜二つ なぜ文仁親王は上皇御夫妻の子に? 西村 泰一
§1 出生率の変遷
合計特殊出生率とは、15歳から49歳の女性の年齢別出生率を合計したもので、1人の女性が生涯に生む子どもの数を推計した指標です。人口動態の出生の傾向をみる主要な指標として用いられています。
その変遷についても、いくつかの年をピンポイントで見てみましょう。
1925年 5.11
1930年 4.72
1940年 4.12 戦前最後の公開値
1947年 4.54
1961年 1.96 初めて2を切る
2005年 1.26 過去最低
2006年 1.32 増加に転じる
2015年 1.45 まで増加
2022年 1.26
2023年 1.20 統計開始以降最低
出生率の低下には、未婚化の進展や、晩婚化・晩産化の進展などが背景にあると考えられています。1947年に非常に高い数値を記録しているのは、戦争が終わって皆ホッとして子作りに励んだためです。それでは結婚適齢期の歴史的変遷について見てみましょうか。
・奈良時代の結婚適齢期は、男性が15歳、女性が13歳以上でした。これは中国の法律を真似たもので、中国が早婚を奨励していたためです。
・平安時代では、男子は11~17歳頃に「元服」(げんぷく)、女子は12~14歳頃に「裳着」(もぎ)を行い、結婚できる成人として認められていました。結婚適齢期としては男性16~20歳、女性13~15歳頃だったようです。
・鎌倉時代・室町時代も、10代中盤で結婚するのが当たり前の時代でした。余談ですが、何事にも例外はあるもので、鎌倉時代の所謂摂家将軍の藤原頼経は、15歳の折に28歳の鞠子と結婚しています。鞠子は、非業の死を遂げた鎌倉幕府2代将軍・源頼家の娘でした。
・江戸時代には男子が15歳、女子が13歳で成人しました、男性が20代後半、女性が20歳前後で結婚するのが当たり前とされていたようです。町人の娘の場合、結婚が早く、16~7歳で嫁入り時と言われ、20歳を過ぎると「年増」、24~5歳で「中年増」、28~9歳では「大年増」と呼ばれました。この基準でいきますと、秋篠宮家の佳子さんあたりは、差し詰め「大年増」ということになります。そういえば最近の佳子さんは、「大年増」としての風格が備わってきたようで、頼もしい限りです。
・昭和20年頃には女性は16歳、17歳、男性は20歳前後で結婚することが多かったようです。
・昭和25年頃には、女性は22歳前後、男性は28歳前後で結婚するようになってきています。
・現代は男性が30代前半、女性が20代後半から30代前半ぐらいとされているようです。
ここ100年ぐらいの結婚年齢の変遷については、下の記事を御覧ください。
■『ヤフーニュース』100年以上にわたる初婚年齢の推移をさぐる(2024年公開版) 不破雷蔵
§2 男系男子はSustainable(維持可能)ではない
明治時代においては、天皇の跡継ぎを確保するために一夫一婦多妾(いっぷいっぷたしょう)の側室制度がとられていました。しかし、明治31年に民法によって一夫一婦制が確立され、大正天皇以降は側室制度が廃止されました。
明治天皇には5人の側室がおりました。明治天皇の奥様は、昭憲皇太后で、大変賢明な方でしたが、子供は出来ませんでした。側室との間に15人の子が生まれましたが、成人したのは、柳原愛子と園祥子が生んだ5人だけです。
この5人のうち、男子は柳原愛子が生んだ大正天皇だけです。残りの4人はすべて女子で、園祥子が生み、このうちの昌子内親王の系譜に、竹田恒泰氏の父の竹田恆和氏がいます。
明治天皇は大正天皇には殆ど無関心で、孫の昭和天皇に熱き思いを寄せ、信任の厚かった乃木希典を学習院長に指名して、その教育に当たらせています。我々が、悠仁天皇には何も期待せず、愛子天皇に熱い思いを抱くようなものです。
大正天皇は病弱で46歳で亡くなりましたが、子宝には恵まれました。4人の子供が全員男性で、昭和天皇、三笠宮崇仁親王、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王という具合です。
大正時代は15年と短かったものの、大正デモクラシーの時代であり、モボ(Modern Boy)・モガ(Modern Girl)が銀座あたりを闊歩した時代であったことが、こちらの動画でもわかります。
■『YouTube』【日本史】大正時代:大正Democracyと文化の開花 ― World History
昭和天皇も子宝には恵まれ、男子に上皇明仁と常陸宮正仁親王、女子に 東久邇成子、 鷹司和子、 島津貴子、 池田厚子、 久宮祐子内親王といった具合です。
男系男子は側室なんかの他の制度と一体として運営されていたのであり、男系男子だけを取り出して、これを今後も続けていきましょうなどというのは、笑止の沙汰です。男系男子を主張するなら、これを維持可能にするために、側室に代わる方策を御提案いただきたいものです。
側室が廃止され、この少子化のなかで男性男系が今後維持していけるなどと主張される方は、頭の中がお花畑と言わざるを得ないでしょう。
当時の吉田茂総理大臣は、サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国共産党の政府を除く国々との単独講和を進めていましたが、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張したので、怒った吉田は南原繁を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と呼びました。「阿世」とは「世間に阿(おもね)る」という意味です。
私はこれに倣って、男系男子を主張する学者連中を「曲学阿保(きょくがくアホ)の徒」と呼ばせていただきたい。「阿保」とは「保守に阿(おもね)る」という意味です。
男系男子が維持不可能であることは、単に理論上の話ではありません。2005年の時点で、浩宮様には愛子様という女性の子供しかおらず、秋篠宮にも真子さんと佳子さんという女性の子供しかいないという状況で、小泉内閣は女性天皇を認める方向へ舵を切ろうとしていたのです。
それに慌てた男系男子主義者は、紀子さんを説得して着床前診断・男女産み分け(PGD「Preimplantation Genetic Diagnosis」)で男子を懐妊させ、小泉のこの試みを葬り去ることに成功しました。
この説得の過程で、「天皇制を救うのはあなたしかおりません」とでも言って、紀子さんを煽てたのでしょう。ナントカもおだてりゃ木に登るといいますが、紀子さんが変に張り切りだすのは、この頃からです。
雅子様はとても強い女性です。皇室に色々と重苦しい伝統があることは、結婚前からわかっておられたことでしょう。人間は想定されていた困難にはそれほどShockを受けないものです。
私は浩宮様が所謂「浩宮の乱」で仰った、「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」を何度も反芻してみました。
男系男子主義の方は雅子様に対し、Fertility Harassmentをしただけに留まらず、「男系男子を維持可能たらしめるPGDの技術に頼り、男子を生みなさい」などと執拗に迫ったのではないかと疑っています。
正義感の強い雅子様がそんなことができるわけがない。誰かに他言するわけにもいかず、結局あそこまで追い詰められてしまったのではないでしょうか。
そのようなPGDに支えられて維持される天皇制なんて、ギリシャ神話に登場するライオンの頭、山羊の身体、蛇の尻尾を持つ怪物キメラみたいなもの。悍ましいこと、この上ないです。桑原、桑原。
§3 文仁親王誕生秘話
文仁君が生まれたのは1965年11月30日です。正田美智子(現在の上皇后)さんは皇太子明仁親王(現在の上皇)と1958年、24歳で結婚して1960年2月23日に徳仁親王を出産しました。
1963年3月4日に第二子懐妊が報じられましたが、直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院。胞状奇胎と診断され、翌日の午後に流産の処置手術が行われました。癌化の不安があるため、子宮を残すなら定期的な検査が必要となり、医師からは2年間の懐妊を禁じられたと文春オンラインも伝えています。
そうなると、1934年生まれの美智子妃は30歳を超えてしまいます。それには、男系男子を信奉する人達も焦ったことでしょう。既に徳仁親王という男子がいるとはいえ、この頃の日本の出生率は既に2を切っており、仮に明仁親王がさらに2人の子を授かったとしても、2人とも女の子である確率は25%もあります。
一人しか授からなければ、その子が女性である確率は50%であり、そうなると、男系男子を存続させるためにもう一人男子が必要と考えるのは、頗る自然です。そんな折に、安西家に嫁いでいる美智子妃の妹が懐妊したという話が飛び込んできたら、「そうだ、これを利用しない手はない」となるでしょう。
皇室典範により皇太子御夫妻が養子をとることは禁じられています。そこで繰り広げられたのが、美智子妃があたかも妊娠・出産したかように装う猿芝居ではないでしょうか。これについては下の記事を参照してください。
■『【皇室・都市伝説を紐解く】上皇后さまの謎その1:影武者説が存在 「だって胞状奇胎で子宮を…」』
§4 昭和天皇のお言葉
文仁君を養子に迎えるにあたって、世間に対しては恰も自分が孕んだようにCamouflageできても、皇室の方々や宮内庁の上層部の方を欺くことは無理な相談なので、それなりに根回しがなされたと思われます。
もちろん昭和天皇もよく御存知だったのでしょう。晩年には、繰り返し「浩宮の次は浩宮の子」と仰られたとか。「浩宮の子」が男児か女児かもわかっていなかったのに、です。
これは昭和天皇の遺言とでもいうべき言葉です。男系男子主義の方は、この言葉をよく噛み締めていただきたいものです。
§5 Concluding Music
それでは以下の音楽を聴きながら、お別れしましょう。
(理学博士:西村泰一)
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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月 洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月 京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月 筑波大学(数学)
参考:
・『YouTube』【日本史】大正時代:大正デモクラシーと文化の開花 ― World History
・『YouTube』「めぐりあわせ」永井龍雲(浜辺美波)風の風来坊
・『厚生労働省』合計特殊出生率・出生性比の年次推移 -昭和22~平成12年-
先日のNHK大河ドラマ光る君へでは、大津市の園城寺が紹介がされました。境内には天智天皇、天武天皇、持統天皇の三天皇が産湯に使ったとされる神聖な水が今も湧き出ています。三天皇がこの湧き水を汲んで使った事から、別名三井寺とも言われます。
以前ドキュメンタリーで、3人目の女性天皇として即位された持統天皇のその時代は、武力による権力争いで反乱謀反暗殺自害病弱…次々と皇位継承者がいなくなる状態で、皇室の危機を阻止し権威を保持するためには、万世一系という錦の御旗を有益にし、その価値観がアピールされ始めた頃との事でした。
現代はその万世一系は、神話の世界の神武天皇からだと信じ崇められていて、現在の皇室に諸問題を投げかけています。西村先生が触れて下さった、倫理違反の男女産み分けを男系男子と崇めへつらう現状も端から根本がずれていると思うのですが、識者が今日までそれに触れられているのを目にした事は無く、皇統を継ぐには正当な手法だと錯覚する位です。
しかし当事者は何の因果か痛ましいほど困難を極めているのに、政府も関係者もなお箔付けに追い詰め、気の毒を越えて不安と苛立ちを覚えます。A宮さまは常々皇族の前に一人の人間、皇族も生身の人間…とご自分達を肯定されますが、先ずはご子息の平穏無事を第一に考えて欲しいと願っています。
姉が子を産めぬ身体になったので、妹が代わりに出産して姉の実子とする。
これは世間ではままあることです。旧家などで長男の本家に跡継ぎが必要な場合の措置です。
そこに男子限定という縛りがさらにあるとしたら?
男子なら姉さんの子に、女子なら御落胤としてうちで引き取る、となっていたかも知れません。
時代は下って、2006年9月6日。或る家に因縁の障害のある男児が誕生します。日本国民にとって、悪夢の始まりでした。
既出かも知れませんが、日本で現在も主流のパーコール法という産みわけ法が、それまで長年禁止されていたのが、日本産婦人科学会は2006年4月に禁止令を撤回しています。
それは体外授精時に、禁を犯してパーコール法を用いて精子を分別する産みわけ法を講じ、胎内で男子になっていることが確認されたため、後に厄介な汚点とならぬよう、胎内の男児に忖度しての解禁措置だったのではないのかと、このタイミングからは誰でも読めてしまいます。
この際、学会は「追試の結果、X精子とY精子を完全に選別することはできない。 よって産み分けできる科学的根拠はない」とリップサービスを忘れず、あたかも人工的性選別児ではないかのように装う根拠を作って差し上げようとまでしていたようです。しかし、パーコール法でも9割以上が産みわけに成功していると謳うクリニックもあり、これに若い女子から採取した(例えば親族の卵子)を使用し、体外授精すれば、高確率で、典範改正審議を緊急停止させるため、注文通りの偽者男児を滑り込ませることもできたでしょう。
ただ成年になったのに会見もできない、補聴器使用とか、難病罹患の噂が絶えない、成績も不良な子になるとは、皇祖神の偉大なる御采配でしたが。
昭和天皇の「浩宮の次は浩宮の子」というのは興味深い発言です。
何か興味深いのか「浩宮の次は浩宮の男の子」となっていないところです。
昭和天皇は「たぶん男の子生まれるでしょ」と思っていたかも知れませんが、言葉というのは面白いですね。
次男とされている方はAザイさんの子で間違いないと思います。
偽次男がどうこうよりも、やはり昭和様が仰ったとされる
“浩宮の次は浩宮の子で”
直系長子で良いのです。
ミチコさんの骨折騒動で
私は胞状奇胎も嘘だったのでは、と思うようになりました。
病気が大好きな方、嘘を付くのが平気な方、国民を騙すのにいささかの躊躇いも無い方
そのようなカタだとはっきりわかりましたから。
大正天皇までは側室制度があったのですね?
昭和天皇はなかなか男子に恵まれず周りから側室を勧められても頑としてして断られたとのこと。
大正天皇は明治天皇と側室との間のお子さまとか。
お写真を見ても似ておられるのかと。(明治、大正、昭和天皇)
秋篠宮はどう見ても上皇には似ていませんね。
やはり、安○さんにそっくり。
となるとこれは、、、。
だから、昭和天皇は浩宮のあとは浩宮の子にと仰られた?(全て知っていたから)
清子さんはどなたさまのお子さま?
男子だ女子だと言ってないでちゃんと血が繋がってるかを証明して下さい。
これは妄想と思ってお読み下さい。
A仁さまとAZさんが、同じ血液型だったとします。
A仁さまは女好きなので、人妻にも興味を示し、胞状奇胎で子宮全摘した妃を見限り、周囲から這わされたメダカに次々と手を出してしまいます。普通なら、堕ろさせるところですが、将来の権力者を目指す男なら、チャンスと捉えるかも知れません。
同時期に二人の男と関わったら、まずどちらの子かわからない状況が起きます。
それどころか、A仁さまが手を出した直後にAZさんも集中的に妻とやれば、表向きは御落胤を頂けたことにして、逆に自分の子を宮中に入れることもできたでしょう。
いまならすぐDNA鑑定ですが、当時は血液型鑑定しかできなかったので、不自然でない血液型どうしだったら、A仁さまの子か、AZさんの子かは区別できなかった筈。
実際どちらの子かは、宮内庁も不明なままで、闇養子にしたのではないでしょうか。
もし女児だったら、闇養子はありえなかったでしょうが、男児だったので、俄に出産演技が準備され、大きくなりすぎた赤ちゃんを生まれたてに偽装して、いまの誕生日になったのでは。翌年の夏の下田行きの急行列車の窓で見せたのは、どうみてもセルロイドのベビー人形でした。大きくなりすぎていたからでしょう。
「30日」という誕生日設定にも、何とか月をまたがせずに、異常に大きな赤ん坊を新生児に誤魔化そうとした苦心の跡が読み取れるのです。
ペットショップで、実際は売れ残った子犬や子猫の誕生日を誤魔化し、なるべく高値で売りぬけようとするのと同じです。
ただ姿形が歳をとるにつれ、AZさんに激似となってきて、今やネット上では誰でも知っている「疑惑の子」になったのではないか、と勝手に妄想しています。
昭和天皇のこちらのお言葉を聞くと、いつも徳川家康が家光をお世継ぎに決定したことを思い出します。お決めになった理由は異なりますが、家光と陛下のそれぞれの周辺の人物像がよく似ているように思います。徳川の世が250年続いたように、敬宮様が皇位継承をなさることにより、何百年も皇室が続きますように。
度々すみません。
先程の懐妊偽造の件ですが、赤ちゃんの月齢を6,7ケ月何とかごまかせば、妹に男子出生→美智子妃懐妊発表に出来ますね。
もう少し大きくなってしまえば半年ほどの子供の成長の差は映像では国民には分からなくなります。
すみません。何とかなりそうですね。
ひとつ疑問があります。
美智子妃の妹が懐妊→美智子妃懐妊偽造→妹男子出産→美智子妃男子出産偽造の流れになると思います。
妹が産んだのが男子だったのでめでたく?美智子妃次男出産となったわけですが、もし女の子だったらと言うリスクは考えられなかったのでしょうか。
当時お腹の子が男子かどうかは分からなかったのではないかと思いますので、男子誕生になってから懐妊偽造したとすると、乳児期の赤ちゃんの大きさ、発達を世間に上手くごまかしたのでしょうか。
西村先生、日本の今年の新生児は70万人とのことで10年後の日本が存在するのか分かりません。中国では減り始めたとはいえ1000万人を超えています。人口なので差は930万人も多いのですね! 日本は盤石と呆けていたら外国勢に押し込まれて凄~く怪しい状況になっちゃっていました。「待ち惚け」そのものです。ずっこい輩は隙を狙っていると今更分かりました。反省頻りです。でも未だ間に合いますよね。間に合うと思いたい。
皇室の存在は国防の一端を担っています。些末な男系男子に拘って皇統を失う危うさ。将来の日本が消え掛かっているのに。明日の米と共に消えちゃうかも!! あの時に立ち上がっていれば…と後悔しないように精一杯アイツ等に抗って、敬宮殿下に繋げる覚悟です!
ここ数年で国民は情報の受発信力が著しく向上しました。
はっきり申せばもはや男子女子、男系女系と言っている段階ではありません。
国民が敬愛できる方でなければ、即位しても立ち行かないでしょう。国民の目はそれほど厳しいのです。
現代の皇位において、唯一絶対的に重要なのは象徴教育です。性別や男系女系ではありません。国民統合の象徴たる象徴教育こそが皇統の生命線になったのです。
しかし、象徴教育をこれからも代々継続する事は簡単ではありません。国民に敬愛されない「跡取り」が現れれば天皇制は続けられないでしょう。続ける意味もありません。
皇室にとって厳しい時代ですが、両陛下と敬宮さまの皇統以外に希望は見出せません。
このブロクにはこのような記事が、、そして最後の方には、例の写真があります。国民が不審に思い続ける事が放置されたままでは、納得出来る訳がありません。偽皇族の疑いが言われてながらの外国訪問、問題有りの息子の留学など、胸のつかえは取れません!
↓
>「皇室秘話185。」と「 皇室秘話No.205秋篠宮は美智子妃不倫の子!」
2024年06月24日 Kickbellのブログ
上記文言で検索を、、
> 2023/10/17の動画です。
引用失礼します。
男女産み分けは2002年から始まっていた。
ここのところ、の「男女産み分け」の記事が続いていますが、
敬宮愛子様の「女性天皇待望論」が国民の総意の90%となっている現状で、記録となるものなら、遺したいという思いです。
皇室秘話No.185 男女産み分けは2002年から始まっていた
メキシコ大統領晩餐会紹介飛ばしは、腹いせに行われた。
https://ameblo.jp/kickbell/entry-12850720676.html
の、「えっ!?国母になれるの?やるやる!」の声が聴こえる・・・・。
そしてこちらはakさんの動画になります。
2024/06/15付。
美智子前の出産に立ち会った医師たちの証言有。
ここまで疑惑が深まると矢張り、A宮のDNA鑑定あるのみです。
皇室秘話No.205秋篠宮は美智子妃不倫の子!
[女性皇族が結婚後も皇室に残る案]は、まやかし!愛子様ご注意を!
(詳しくは本文で)