悠仁さま原爆と被爆者への関心は皆無? 写真展『ヒロシマ1945』の感想にあなたはゾッとしないだろうか
このたびの参院選で当選した、参政党の「さや」議員による “核武装が安上がり” 発言。Xや掲示板ではずっと「被爆国・日本でこんな人が国会に送り出されるなんて」「参政党の憲法改悪案では、天皇は象徴ではなく統帥権を持たされ、戦争をする国に変わるだろう」といった意見で沸いている。
こちらの件に絡めてどうしてもお伝えしたいのが、秋篠宮家の長男・悠仁さまが7月11日にご家族で写真展『ヒロシマ1945』を見学されるも、「写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました」しか感想がなかったこと。しかもこの言葉は、巷で使われている文章の受け売りではないのか。
◆「写真や映像の持つ情報の多さや力」
YouTubeが持つあらゆる面での影響力について、高校生が熱い議論を交わし、大学生が論文の材料にする現代。悠仁さまはそこで多用される言葉にビビッと来て脳裏に焼き付き、このたびふとそれを使った(いわゆる言葉の受け売り)のではないだろうか。
そもそも、「写真や映像が持つ情報量」をネットでググッてみると、YouTube、SNS、ホームページ構築、ニュースメディア、マーケティングから印刷業界まで、実に多くのウェブページで酷似した言葉、表現を使用していることがわかる。
もっと佳子さまや悠仁さまのメディア露出を考えた方がよい ― そんなアドバイスを専門家から受けて現在の秋篠宮家があると筆者は想像しているが、その説得の材料として「写真や映像が持つ情報の多さや力」といった言葉が使われていたことも、想像に難くない。
◆神奈川県のHさんはココを見逃さなかった
この件について神奈川県在住のHさんから、とても興味深いメールをいただいているので、ほぼ原文のまま紹介させていただきたいと思う。
多くのメディアが、悠仁さまは「写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました」と感想を話された、などと伝えています。佳子さまについては、「カメラマンの葛藤伝わりました」とおっしゃったと。
ところが、TBS NEWS DIGの7月11日付の記事『秋篠宮ご一家4人そろって「被爆80年企画展ヒロシマ1945」を視察 平和への思い胸に』では、佳子さんの感想は載せたのに、悠仁さまの感想には触れませんでした。
“視察を終え、秋篠宮さまは「こういったことは二度とあってはならない」、佳子さまは「写真に写っている人たちの苦しみと撮影者の葛藤が伝わってきました」などと話されたということです。”
一方、同じ日の日テレNEWSは『【秋篠宮ご一家】被爆80年ヒロシマの写真展をご覧 佳子さま「カメラマンの葛藤伝わりました」』という記事で、“悠仁さまは「写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました」と感想を話されていたということです” と伝えています。
なぜTBS NEWS DIGは悠仁さまの感想を紹介しなかったのだろうか。あるいは、把握していたが敢えて省いてしまった? いや、それはないだろう。再びHさんからのメールに戻ると…。
そこで、報道各社の記事を確認していくと、中國新聞ヒロシマ平和メディアセンターによる7月13日付の記事『[被爆80年] 「核はなくならないといけない」 秋篠宮ご一家 企画展を見学 東京』が、ご一家の真実を伝えてくれた気がしました。
“佳子さまは被写体を突き止めた報道機関の調査に触れ「一つ一つの写真に写っている人は名前のある人間だと感じることができた」と話した。悠仁さまは、やけどの治療を受ける映像を背筋を伸ばして見つめた。”
悠仁さまは164点の写真を見学されても何も話しておらず、ご家族か側近にあとで「どんなことを感じた?」と尋ねられて、それで「写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました」とだけ話したのではないでしょうか。
ここでは悠仁さまの話題だけにとどめたが、佳子さまのコメントもたいそうピントがズレている気がする。被爆者に名前があるかないか、これはそんなに重要なことだろうか。
◆共感や同情の心を持たないショラテン?
Hさんからのメールの最後には、「やけどの治療を受けるモノクロ映像を見て『写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました』と言う感性に、私はゾッとしました。この感想がピント外れで薄っぺらに感じるのは、今回の写真展で私たち被爆国の人間が理解しなければならないもう1つの大切なこと、その『受け止め』が抜けているからだと思います」と書かれていた。
被爆の様子を伝える悲惨な写真にボロボロと涙する人もいれば、そうでない人もいる。前者の感受性を10、後者の感受性を0とすると、おそらく悠仁さまは2くらいではないだろうか。なぜ2としたかというと、成年会見では一応「国民に寄り添う」という言葉が聞かれたからである。
あと1ヶ月で成年式が行われる予定だが、悠仁さまは人々の悲しみ、痛み、苦しみに憐れむ心を持っておられるのだろうか。昭和天皇や今上陛下のように、悠仁さまは将来、国民の心の拠り所と言われるようなご存在になれるとは、とても思えない。
◆どんな写真展なのか
原子爆弾、被爆の恐ろしさについて、日本人ならしっかり学んでおきたいとして、修学旅行で広島や長崎を訪れる高校が多いなか、ぜひ東京でもと、この写真展は目黒の東京都写真美術館で8月17日まで開催されている。多くの方が来場し、今月1日には2万人を突破したもようだ。
公式HPはこちらをどうぞ。
■『東京都写真美術館』被爆80年企画展 ヒロシマ1945
展示されている写真の紹介も多いので、こちらも是非ご訪問いただきたいと思う。
■『ユネスコ「世界の記憶」登録候補 広島原爆の視覚的資料 ―1945年の写真と映像』
■『note/Naota_t』 【展覧会レポ】東京都写真美術館「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」
■『美術手帳』「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」(東京都写真美術館)開幕レポート。広島原爆の惨禍を伝えようとした人々の矜持
(朝比奈ゆかり/エトセトラ)
画像および参考:
・『ユネスコ「世界の記憶」登録候補 広島原爆の視覚的資料 ―1945年の写真と映像』
・『中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター』[被爆80年] 「核はなくならないといけない」 秋篠宮ご一家 企画展を見学 東京
・『美術手帳』「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」(東京都写真美術館)開幕レポート。広島原爆の惨禍を伝えようとした人々の矜持
・『東京都写真美術館』ヒロシマ1945
・『note/Naota_t』 【展覧会レポ】東京都写真美術館「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」
この“やけどの治療”に関するところの描写は
京都での昆虫国際会議における昆虫食の説明で「羽や脚をむしる」←こ通りの文言てはなかったかもしれません。で何とも言えぬ顔で笑ったとこちらでコメントしましたが、それを思い出して寒気がします。
つまり被爆した方々への思いなど、ヒサヒトサンには全くなくて、被爆してやけどしたその事象だけに興味があったのだと思います。
この一家のそれぞれのコメントは、日本人ならこれまで生きてきて何度か目にしたことがあったと思うのに、今回初めて見て知ったかのよう。さすが秋篠家だな、と驚嘆しました。
おそらく、戦争や平和へのご関心が皆無なのでしょうね。ご関心があれば、ご本人の賢さを抜きにしても、ある程度のコメントはできると思います。
例えば、秋篠宮様に生き物のコメントを求めたり、佳子様にダンスのコメントを求めれば、例えこちらの方々でも、ある程度真っ当なコメントがお出来になると思います。
人間、誰しもどうにもならない好き嫌いがありますよね。一般人なら、不得手な道をある程度避けることはできます。皇族の方は避けられないのでしょうか?
私は、皇族でも避けて良いと思っています。好きで皇室に生まれた訳ではないのですから。しかし、皇位継承だけは絶対にダメです。
私がこのコメントに思ったのは「写真や映像の持つ情報の多さや力を感じました」と言うような、何の写真展でも使えるような「汎用的表現」をする場面ではないでしょ?
と言うことです。
「ショラテン」なんて諦めてもらえませんか?
国民は天皇皇后両陛下の直系長子様の立太子を心から待ち望んでおります。
敬宮様のヒロシマの作文「世界の平和を願って」とどうしても比較せずにはいられません。
中学3年にして、「空が青いのは当たり前ではない。」「平和は人任せにしてはいけない。」といった大人顔負けの洞察力あるお言葉の数々。
国民の悲惨な経験を一度、ご自分の中に落とし込み、咀嚼し、より良いお言葉として昇華させるお力の凄さに圧倒されてしまいました。
この方は民を束ね、理想へと導いてくださる象徴に相応しい方なのだなと確信しました。
日本の象徴を超えて、綺麗事ではない真の平和を目指す世界の象徴にもなれる方かもしれません。
スピ的なものにはまるで疎い私ですが、多くの方がおっしゃるように、この方は光なき現世に、本当に天照大神が遣わされた方かもしれません。
それに比べて悠仁さまの無機質で薄っぺらいお言葉には愕然としました。
一片の感想もないところに、民の苦しみを自分のものとすることなど、ハナから不可能である事を感じます。
この方は一個人として、しばしば誰かに助けられながら人生を送るしかない方であることがありありとわかります。
もう答えは出てしまっています。
あとはその総意で象徴に最も相応しい方の立太子を、政治に強力に働きかける仕事が、国民に託されているのです。
私が皇室に関心を持つきっかけになったのが、まさにこの点でした。
秋篠宮家のカタカタに対する奇妙な印象です。
表情がいかにも嘘くさい、感情がオカシイのでは?というところから始まりました。
かと言って、皇室の方がみなそうなのではない。
例えば、天皇家のお三人は、実に感情豊かで、相手を思いやったり、共感を持たれたりされている。嬉しい時は、実に嬉しいという表情をなさっている。心から悲しんでいらっしゃることが伝わってくる。
それに対し、この宮家は、みんながみんな、奇妙な感じだ。
鈍感というのとも違う。
あえて言うなら、共感することが無いのではないか、というところでしょうか。誰かと一緒に喜んだり悲しんだり、そういうところが欠けているのではないか。幸せの定義が、まるで違っている。
親ふたりがそのようであるなら、子供たちもそれがあたりまえだと育つのでしょう。
実際にコメントを話されている場面もなかなか表に出てきませんから、あやしいものだとも思います。この場面ならこんなコメントで、とゴーストライターが考えていそうです。
高校で履修科目となった「情報」で、写真や映像の情報量について教えます。
映像は、写真の5000倍の情報量だそうです。
「情報の多さを感じる」ではなくて「映像や写真は多くの情報を伝えてくれる」と言えば
良かったと思います。皆さんが不思議に思われるのは、言葉に自分の感情が無いからでしょう。
佳子さんの「一つ一つの写真に写っている人は名前のある人間だと感じることができた」は
意味深に思えます。大勢の被爆者の写真というだけではなく、被写体一人ひとり名前があって
被爆の瞬間まで、精一杯それぞれの人生を生きていたんだという思いが伝わったのだと
思います。「名前のある人間だと感じることができた」というこの言葉は誰かに向けた
ものかもしれません。
コンナことをする親の元で、マトモな感性の子が育つはずがない!
↓
>A宮はカピバラ、ピラルクを違法喰い、モルモットも大好物。ヨーロッパ王族は知っている。
2022-12-13 Ameba
上記文言で検索を、、
>動物園や研究所が、展示や研究目的で通関・検疫、相手国との手続きもして手に入れた大切な動物を、BBQにして食ってしまうA宮の行状。
>ちなみにそのBBQ会場は東京農大内の研究所。
カピバラ、ピラルクなど、海外をだまし、動物園や植物園を通じてA宮のBBQ用食材や収集物を仕入れている。
この費用はもちろんA宮の負担ではなく、研究所や動物園などの予算から払っている。
これは、犯罪である。
(詳しくは本文で)