【皇室、徒然なるままに】第81話 忖度する学者たち 珍説発表で15年が無駄になった水俣病認定 西村 泰一

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エトセトラ・ジャパン・ブログは、悠仁君のトンボ論文が写真の捏造による不正論文であることをほぼ完璧な形で論証されているのであるが、悠仁君の進学先との関係で、報道機関も含め、彼のトンボ論文を取り上げても、その疑義についてはあまり触れられていないのは、とても残念である。




 
これを見ていると、熊本大学の医学部の先生たちが水俣病の原因は窒素水俣工場から海に垂れ流された有機水銀であることをかなり早い段階で突き止めておられたにもかかわらず、水俣病認定を15年遅らせたと言われている東工大の清浦 雷作先生が思い浮かぶ。

忖度する学者として、ここでは所謂御用学者の代表格である清浦 雷作先生を少し詳しく見てみたい。

 

§1  水俣病

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85#:~:text=%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%81%B3%E3%82%87%E3%81%86,%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%AC%E5%AE%B3%E7%97%85%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82&text=%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6,%E3%81%AE%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

水俣病(みなまたびょう)とは、熊本県水俣湾周辺の化学工場などから海や河川に排出されたメチル水銀化合物(有機水銀)により汚染された海産物を住民が長期にわたり日常的に食べたことで水銀中毒が集団発生した公害病である。

第二次世界大戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である四大公害病の一つである。「公害の原点」ともいわれ、工業災害における犠牲者の多さでも知られる。

また、水俣病と全く同じ原因そして同じ症状の患者が新潟県阿賀野川下流域で集団発生した(第二水俣病)。有機水銀病とも言われる。有機水銀を大量に摂取すると、中枢神経が犯されてしまう。1954年8月1日、『熊本日日新聞』が「ネコ100余匹が次々と狂い死にした」と報道。これが水俣病の初報とされる。

1956年(昭和31年)5月1日、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に患者の発生を報告し、公式に確認された。

1958年(昭和33年)頃から「水俣病」の名称が使われ始め、1968年(昭和43年)9月26日、厚生省は、水俣病の原因物質をチッソ水俣工場の廃液に含まれたメチル水銀化合物であると認定した。

1997年(平成9年)7月29日、熊本県知事が水俣湾の安全宣言を行い、同年10月から漁が再開されている。




 

§2  東工大の清浦 雷作(きようら らいさく)先生

∙  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E9%9B%B7%E4%BD%9C

∙  https://ameblo.jp/hakosukahayabusa/entry-12723974710.html

この方は応用化学の専門家である。

1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場から排出された水銀による被害である疑いが濃くなると、清浦は8月24日に水俣を訪れ、5日間現地を調査した。

8月29日、清浦は水俣市役所で記者会見し「水俣港防波堤の外側海水は、日本にある他の化学工場所在地の海水とほぼ同程度で正常だ」と述べ、水俣病は工場廃液とは関係がないと発表した。

同年11月11日、「有機アミン説」(水俣病は有明海の魚が死んで腐り、その体からアミンなる有害物質が出ることにより起きたとする学説)を通商産業省に報告するが、それだけでなく、報告内容を記者発表することを大手新聞社に事前にリーク。清浦は実際に記者会見し、朝日新聞などに「考えられぬ工場排水、水俣病の原因、東工大教授が研究報告」と記事に書かせている。

1960年1月、政府は経済企画庁、通商省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせた。協議会には学識経験者として、熊本大学研究班の内田槇男と喜田村正次、東京水産大学の宇田道隆、東京大学の松江吉行、清浦らが参加した。

同年4月12日、同協議会の第2回会合が開かれ、内田槇男から「有機水銀説」が報告されるが、これに対し清浦が反論。「水俣病の原因は水銀ではなく、アミン系の毒物である」と述べ、貝によるアミン中毒説を発表した。

このときも清浦は事前に記者に知らせ、その日の夕刊は「水俣病の水銀説否定」と見出しを大きく掲げた。清浦のアミン説発表により水俣病認定が15年遅れたといわれる。東工大という影響力の大きな有力大学の教授の珍説が引き起こした悲劇であった。

 

§3  Concluding Music

それではいつものように音楽を聴きながら、終わりましょう。

(理学博士:西村泰一)

画像および参考:
『J-Stage』赤坂御用地のトンボ相

『エトセトラ・ジャパン』江淑娜 – 墓仔埔也敢去 ― Depuislejour86

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【西村先生のご経歴】
1966年4月ー1972年3月  洛星中高等学校
1972年4月ー1976年3月  京都大学理学部
1976年4月ー1979年10月 京都大学大学院数理解析専攻
1979年11月ー1986年3月 京都大学附置数理解析研究所
1986年4月ー2019年3月  筑波大学(数学)

1件のコメント

  • 薬害エイズ事件のときの帝京大学教授の阿部英。
    事件当時は、御用学者で曲学阿世の輩とさんざんいわれていました。
    「安部英医師「薬害エイズ」事件の真実」という本では名誉回復がはかられている。
    (ただしこの事件がどうして起きたか、誰が悪かったか、私はまだよくわかっていません。)

    日清日露戦争時の陸軍脚気における軍医森林太郎(鴎外)。
    いまだに名誉回復ははかられていない。それどころか鴎外といえばこの責任問題が必ずでるぐらい。

    私は鴎外に責任なしとは考えないが、主犯ではないと考えている。鴎外は日清日露戦争時に軍医の最高責任者ではなかった。
    かといって当時の実力者に阿って細菌説を支持した、のではないと私は考えてます。
    自然科学の方法、つまり事実から仮説をたてて理論を作るというプロセスを、鴎外は真逆にやったのです。

    日露戦争後、鴎外の提唱で「脚気病調査会」が設置され、脚気の原因は大正13年に北里らの「ビタミンB欠乏説」に落ち着きました。鴎外は大正11年に没しているが、脚気調査会の課程で自分の「細菌説」の誤謬には気が付いただろう。かといって謝罪も自分の一存ではできなかっただろう。最晩年には宮内庁所属になっていたが、複雑怪奇な陸軍人事を考慮すると。

    ところで「昭和」という元号は、鴎外の著作『元号考』が元になっているらしい。(漢文みたいなので、とても読めないけど。)

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